更に与えられる秤
マルコ4:21〜25、2001、4/22
4:22 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。
4:23 聞く耳のある者は聞きなさい。」
4:24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。
4:25 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
更に与えられる秤
*今朝の鍵の言葉は”ともし火”であります。主イエスは、「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置く為であろうか?」と言われました。ある訳では「灯火が来るのは」となっており、原語のギリシャ語でも「ともし火が来る」となっております。
学生の頃、原子力発電所でガードマンのアルバイトをした事がありました。その発電所は田舎にありまして、夜、バス停から社員寮迄、1つの街灯もない山道を歩いて帰った時、漆黒の闇というものを経験致しました。目の前も見えない暗闇が如何に恐怖か、月明かりが如何にありがたいかを知りました。
主イエスの時代も、街灯などありませんから、月明かりが無い夜は、正に漆黒の闇であったのです。そんな時、向こうから、ともし火を持った人が来たとしたら、人の姿は見えず”ともし火が来た”様に見えたに違いありません…主イエスは、この譬えから、
”近づいて来る神の力ある愛の支配に、この様にして預かりなさい”と言われたのです。
T、近づいて来るともし火
この”近づいて来るともし火”…即ち”近づいて来る神の国”とはどの様な事なのでしょうか?…イザヤ43:4に「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」との御言がございます。神は私共に対し「私は、罪の中にいるあなたを愛している。あなたは滅んではいけない。尊い尊い私の宝なのだから…さあ、私の元へ、闇から光へ戻って来なさい」と言われているのです。この様な、神の愛の宣言を受ける時、人は、心の闇の部分に、光が灯る経験をするのです。
正に、心の闇に聖霊が臨み、光に捉えられ、光に支えられ、光に導かれて生き、光なる御方の元に帰って行く経験をして行くのです…こうした”神の愛に迫られ、捉えられ、愛に支配されて生きる事こそが、近づいて来るともし火に照らされて生きる事”なのです。
私共が、キリストの躰なる土居教会を、光に捉えられ、光なる主に支え導かれ、光なる主の身許に帰る所と思えるなら…それは幸いな事なのです。
U、ともし火なる主イエス
では、この”ともし火”とは何でしょうか?…いろんな見解がございますが”主イエス”と考えるのが1番素直かと思います。その主イエスが、升の下に置かれると言うのです。
この時代の”ともし火”は、口のついたお皿に油がためられておりまして、そこに灯心を落として火をつけておりました。そこに升をポンと被せて火を消したのです。
ともし火は、升の下に置かれると、火は消され、寝台の下に置きますと照らし出す事が出来ない…役に立たないのです。
先週の聖書通読箇所のレビ記24章3〜4節に「アロンは主の御前に、夕暮れから朝まで絶やす事なく火を灯しておく。これは代々にわたってあなた達の守るべき不変の定めである。アロンは主の御前に絶やす事なく火を灯す為に、純金の燭台の上に灯し火皿を備え付ける」とございました…聖書は一貫して”救いをもたらす神の臨在を灯し続ける様に”と述べているのです。
主イエスも”御自身の臨在の光を、届かない所に置いたり、消してはいけない”と言われたのです。また、それを、何時も最も側にいた弟子達に告げたのでした。
弟子達に言われたのです…何故でしょうか? それは、主の伝道が、大きな反響と共に、大きな反感を買っていたからでした。当時の権力者は宗教家であり、権力にあぐらをかき信仰の生命を失っていたので、突然現れた、生命と力に溢れた主イエスの宣教に、自分達の生活が揺らぐ危機感を覚え、力づくで主を押さえ込もうとしていたからです。
主イエスと共に居る事によって、自分が不利になると感じ,恐れ始めた弟子達の心を、主は見抜かれて「升の下に、ともし火を入れると光が消える『目の前の損得に目を覆われて、あなたの心から、私を追い出すな!…救いの光を、あなたの心から消しはいけない』」と言われたのです。
しかし、主イエスは同時に「隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので公にならないものはない」…「私は隠されて消えてしまう光でなく、必ず、そこから輝き出る」と言われたのです…激しい言葉です。主は十字架に於いて、この言葉を成就されたのです。イエス・キリストは十字架の上で殺されました。正に”ともし火が消された”のです。しかし、その3日後、甦られ”2度と消される事のない命の光となられた”のです。
主イエスは”消されても消えない命の光”なのです…しかし”命の光”が輝き続けていても”心の中で,命のともし火を消すならば、消した人は、救いに預かる事が出来ない”のです。
V、秤に従って与えられる救い
主イエスは、続けて弟子達に向い「何を聞いているかに注意しなさい」と言われました。何を”注意して聴く”のでしょうか?…それは”命の言葉”です
主は「あなたの人生を光へと引き戻し、光に満ちた人生に変え、人生の終焉を光に戻るものと変える、この命の言葉を、今、聴いている事を心しなさい」と言われたのです。
更に主は「あなた方は自分が秤る秤で量り与えられ、更に沢山与えられる」とも言われましたが”注意して聴く”と言うのは”神の愛と力をもって働く、心という神の言を受ける秤を整える事”なのです…この場合の秤は、升の様な物を思い浮かべられると分かり易いと思います。升という秤が小さいと十分に物が入らないのです。
人は、自分の物差しで人の話を聞いております。主イエスは「あなた方が持っている秤をもう1度点検してご覧なさい…もし、私が与えるものを受ける事の出来る秤を持っているなら、更に沢山与えられる」と言われたのでした。
先に申しました様に”自分の秤を顧みる”事は”心という神の言を受ける秤を整える事”であり…更に言うなら”悔い改めて,イエスを主とする信仰を回復する事”なのです。
主イエスの御心より、自分の都合、自分の感情、損得の方が大切という”主イエスよりも,私が主という自己中心を悔い改めて捨てる”事なのです。悔い改めなければ”救いの光は、隠されたまま”だからです。
福音は全ての人を照らす真の光なのですが、世は光を拒みました。ヨハネ1:9〜11「その光は、真の光、世に来て全ての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民の所へ来たが、民は受け入れなかった」世の人々は”悔い改め”を拒み”世の光であるイエスを、主として迎えなかった”のです…弟子達も、主イエスの家族さえも”世の光を消した”のです。
この”光”に私共が預かる道は唯1つ…”秤を整える・聴く耳を持つ”事なのです。悔い改めた”砕かれた心”…”御言葉に聴き、受け入れる、心の耳を持つ”事なのです。
先日、越知教会の佐伯先生とお交わりさせて頂く機会がございました。佐伯師は、超教派の戦争責任告白のツアーで韓国に行かれたそうです。
教会は”公同の教会であるので、かつて戦争で、日本が韓国に犯した過ちは、我が罪でもあるのです。ですから過去の罪が謝罪されていなかったならば、我が罪として謝罪しなければならない”のです。 かつて大きな痛みを負った韓国のキリスト者は、日本のキリスト者から謝罪を受けて、主にあって許して下さったそうです。しかし、本当の和解は、食事の時に与えられたのだそうです。食事を前にし、許して下さった方々と共に居た時、聖霊が臨み、申し訳ない思いが溢れ、涙が流れて来た。気がつくと皆、涙しており、そこで深い和解が生まれたとお聞きしました。真実な、悔い改めが起こる所に、主イエスが臨み、神の愛の支配が生まれるのです。
”主イエスよりも私が主”と言う事が”深い罪の根”であって”救いの光を消してしまいます”…そうした罪が心に根深くある事を聖霊なる神様に教えて頂き、その時毎に”悔い改めて行くならば、心の秤が、どんどん大きくなり、御言葉が、どんどん生きて働く神の力となって”祝福が、私共の内に、家庭の上に、教会の上に「更に与えられ」て行くのです。