大いなる御業
出エジプト14:15〜31,ヨハネ11:40.2001・4/1
出エジプト14:15〜31
14:15 主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。
14:16 杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。
14:17 しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。
14:18 わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
14:19 イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、
14:20 エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。
14:21 モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。
14:22 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。
14:23 エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。
14:24 朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。
14:25 戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」
14:26 主はモーセに言われた。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」
14:27 モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。
14:28 水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。
14:29 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだが、そのとき、水は彼らの右と左に壁となった。
14:30 主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。
14:31 イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。
ヨハネ11:40
11:40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
大いなる御業
*前には海、後ろには敵、そして内側に動揺…正に八方塞の中で、唯一つ開かれていた”上”に向かって叫び祈ったモ−セに対して、神は15節「あなたは何故、私に向かって叫ぶのか?イスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい」と語られ,更に,紅海を前にしたモ−セに対して、16節「あなたは杖を上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中の乾いた地を行かせなさい」と語られたのです。
T、大いなる御業
*神の言に従って,モ−セが,神の杖を紅海に向かって差し出した時、あの余りにも有名な奇跡が起こったのでした…その時,主は一晩中,強い東風を吹かせられたのです。勿論,やまじ風より強かったに違いありません。荒野の砂が顔を叩きつけた事と思います。そんな時,突然ゴーと凄い音がしたかと思うと,海の水が2つに分かれ始めたのです。そして真ん中に、海底が乾いた地が現れ道となったのでした。
道の両側には,分かれた海水が壁の様に,そそり立っていたのです。2年前に,プリンス・オブ・エジプトと言う映画が封切られました。この出エジプトを題材にしたアニメ映画でありまして,雷が光った時,両側にそびえ立つ海の中に,クジラが見え,なる程と感心致しました。そうした映像でも見ない限り想像できない光景だったのです。
勿論,今でも,強風によって海の水が退き海の底が現れる事はあるかも知れません。しかし、海の水が壁の様に,両側にそそり立つ現象は聞いた事がありません。
・士師記5:4-5では,出エジプトの出来事を次の様に記しております「主よ…エドムの野から進み行かれる時,地は震え,天もまた滴らせた。雲が水を滴らせた。山々は、シナイにいます神、主の御前に,イスラエルの神,主の御前に溶け去った」…この時,地震も伴っていたのかも知れません。
詩篇77:16-20にも,出エジプト時に”地が震えた”と記されており,その様に見て参りますと,25節の「主が戦車の車輪を外して進みにくくされた」との記述や「水が両側にそそり立つ・水がエジプト軍の上に流れ帰る」と言う現象が,揺れや隆起と沈下があったと解釈する事も出来ます。兎に角,神は,この時を”神の時”と定められ,全知全能の力をもって大自然を支配されたのです。
この”主の大いなる御業”に預かったイスラエルの民は,どんな気持ちで,足を,開かれた乾いた地に踏み出したのでしょうか?…おそらくイスラエルの民は,自分達の想像を遙かに超えた神の大きさに,1人〜迫られ,生ける神の御目の前を歩んでいる,深い畏れに覆われつつ,足を踏み出したに違いないのです。
U、今も変わらぬ大いなる御業
この海が割れるスケールは,2列で渡ると1ヶ月はかかる計算になるそうで,そこを1晩で渡り終えたというのですから,おそらくq単位のスケールの幅で分かれたであろうと推測されています。
そして,何よりも,この出来事が持つ意味は”クリスチャン生涯のモデル”という事なのです。”エジプトでの奴隷生活”は,私共の”罪の奴隷であった時”を現し…そして”過越しの血によって「初子の死」より救われた事”は”十字架の血潮による,永遠の滅びからの救い”を…そして”紅海途渉は洗礼”に”両脇にそそり立っている海の水しぶきは洗礼の水”に例えられ…また,その後の”40年の荒野の旅路”は”厳しく苦しい,この世のキリスト者生涯”を現しているのです。
また,荒野に於ける”神の支え”であった…”日毎に天より与えられたマナ”は,
”命のパンであるキリストの言葉”で…灼熱の荒野で,神の杖で岩を叩く事によって噴き出し,民の乾きを癒し続けた”水”は”命の水であるキリストの満たし”なのです。
”雲の柱と火の柱の導きは”は”神の導き”に導かれて歩むキリスト者の人生であり…旅の目的地であった”乳と水の流れる地であるカナン”は”天国”なのです”。 出エジプト時に,この様に道を開かれ導かれた神は、今、イエス・キリストによって、道を開かれ導かれるのです。イエス・キリストは,罪の奴隷であった私共を救い”神の子”とし,御自身との交わりの中で,私共を支え,導き,天国まで導いて下さるのです…それは”1人〜に与えられる,出エジプトの奇跡”なのです。
窮地の中で祈る者は,皆,不安と戦います。何度,主の救いと導きを体験しても,不安と戦います。信仰に貯金は無いからです。ただ,御言を求めて祈り,静かで小さな確信を心に受けた者だけが,主の御目の前で,足を踏み出す事が出来るのです。
マルコ9:23に「イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でも出来る」とございます。”エジプト人は開かれた道を渡れなかった”のです…”モ−セの信仰に預かった「イスラエルの民」だけが渡れたのです。「イスラエルの民」は「ノアの箱船の様な」救いの共同体”なのです。
今”救いの共同体”と申しましたが…”救いは昔も今も,人は共同体に加えられる事によって与えられて来た”のです。昔”イスラエルの民が救われた”様に,今は”罪赦され、キリストの躰なる教会に加えられる事によって与えられる”のです。イスラエルの民は”過越の血によって罪覆われ,救いに預かるに相応しい民”とされました。今”主は,私共を,天国に相応しい者とする為,十字架で,過越の小羊となり,血潮をもって罪を贖い覆って下さった”のです…土居教会と言う神の民は”共に聖餐を囲み救いに預かる群”であります…”大いなる救いの御業に預かっている群”なのです。
更に,此処でイスラエルの民がモ−セの信仰に預かって救われた様に…キリストは,弱い私共1人〜の代わりに信仰に立ち…私共が”主の信仰”に預かる様に,祈り執り成して下さっているのです。私共は,主の信仰に預かって救われ導かれて行くのです!
先週,倉敷教会の,岡野牧師が来会されました。岡野先生は,聖書学院時代の後輩であり,お身体の弱さ(心臓のペースメーカー、糖尿病,C型肝炎,他)を抱えながら、大変な苦闘をしつつ開拓中の先生で,皆さんにお祈り頂いております。そうした中、一緒に祈り交わりたい。また,皆様にもお証と感謝をと言う事で,先週,急にお見えになられました。
7年前,先生方が,広島福音教会の副牧師をされておられた頃,倉敷の開拓が始まり,協力されておられたそうですが,6年程前から,倉敷教会の牧師として開拓に導かれ,想像を超える貧しさと困難の中で伝道をして来られました。
2年前に,ヨハネ11;40「イエスは『もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか』と言われた」との御言が与えられ,少数の教会員の方々と共に信仰に立って,新会堂建築の為,開拓指定の申請をされたそうです…しかし,何度も計画の縮小を迫られ,何度も道が閉ざされ,失意と諦めの中,昨年12月ようやく道が開かれ,今年の6月,小さいながらも待望の新会堂が建つ所まで導かれたのです。先生は,この様な主の御業に預かられた時,人間的には喜びの感情も起きない程,疲れ切っていたと言われました。努力,頑張り,信仰心を超えた(力尽きた)所で,神の御業が現れる事が深く分かりました。それが分かれば会堂はいらなかったのかなあ…と重い言葉を漏らされたのです。
・信仰の道は、障害に出会う道、苦しみの道でもあります…しかし、困難が,障害が、どんなに大きくても、そこで足を止めてはなりません。神はモ−セに「民の足を進め行かせなさい」と言われたのです!…何故なら、その中でこそ「紅海が2つに分かれ道が開かれる」様な「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言う”主の大いなる御業の目撃者と成る事が出来る”からなのです。