主の戦い
出エジプト14:13〜21
14:13 モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。
14:14 主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」
14:15 主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。
14:16 杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。
14:17 しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。
14:18 わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
14:19 イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、
14:20 エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。
14:21 モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
主の戦い
前回に続く,今朝の箇所は,イスラエルの民が,これからの40年の間,荒野の旅路で主のを導きに預る為の信仰を学ぶ所です。
前は海、後ろはエジプト軍という絶体絶命下で,民は再び,生きて働かれる神様をモ−セを通して目撃するのです。ただ今迄と違うのは,民は第三者でなく”信仰の訓練を受けている当事者”と言う事です。
13〜14節に,主の救いの御業に預かる為の、モ−セの信仰が記されています「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなた達の為に行われる主の救いを見なさい…主があなた達の為に戦われる。あなた達は静かにしていなさい」…これは,大きな〜恵みの言葉なのです。何故なら”主が私共の為に戦って下さる”と言う主の約束だからです。今朝は,こうした主の救いの御業に,どうしたら私共が預かる事が出来るのか?…また,主は,どの様に救いの御業をなさるのかを学んで参ります。
T、御業に預かる為に
*聖書全体に,神様の「恐れるな」とみ告げにより信仰が覚醒させられた出来事が記されています。例えば,信仰の父アブラハムに「恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」と告げられ,信仰が強められたアブラハムは,老いて子供がいなかったにも拘わらず「子孫が,天の星の様に増える」恵みに預かったのです。
また,主イエスが御降誕された時,荒野に突如現れた天の軍勢に,驚き恐れた羊飼い達に「恐れる事はありません」と告げられ,世から蔑まれていた羊飼い達は,最初の主の礼拝者となると言う光栄に預かりました。
此処で主なる神が預言者イザヤに告げた御言を共に聴きます…イザヤ41:10「恐れる事はない,私はあなたと共にいる神。たじろぐな,私はあなたの神。勢いを与えてあなたを助け,私の救いの右の手であなたを支える」…こうして見て参りますと,主の語りかけは,皆,同じだと分かります。主は「今日,私は立ち上がる。だから,あなたは恐れるな!」と昔も,今も語っておられるのです。そして,この.主の御業に預かる術は唯1つ…”恐れずに主に信頼し,静かに祈り待ち望み続ける事”なのです。
”恐れずに主に信頼する”…先日の祈祷会で,或る姉妹が,この様なお証をされました。その姉妹は,病の痛みの中,先の事をいろいろ考えられ,何時しか恐れに心が覆われたのだそうです。無理もありません。しかし,その方は”全能なる主を信じているか?”…「神様を小さく〜考えてはいなかったか」と反省され「もう1度,主の御言の約束に立ちます」と証されておられました。
私共が,礼拝毎に”全能なる神を信じます”と告白している信仰告白は,私共が主に問い返されるものなのです…神様に,告白するという事が如何に厳かな事かを重く思わせられます。
主の御業預かる為…人間の側に求められる事こそ”恐れずに、全知全能なる主に信頼し,静かに祈り待ち望む事”なのです。
U、御言による御業
*次に,主がどの様に,救いの御業をなされるのかを聖書に聴いて参ります。13節に「今日、あなた達の為に行われる主の救いを見なさい…主があなた達の為に戦われる」…とありますが,私共は,どの様に”主が私共の救いの為に戦われるのを見るのでしょうか?”…”主は御言をもって救いの御業をなされる”のです。
後ろのエジプト軍に勝つ見込みは,万に一つも無く,しかも,前は海,モ−セは,唯一つ開かれていた”上”におられる神を静かに,深く信頼し,上に向かって”叫び祈った”のです。そんなモ−セに対して神は,次のように答えられたのです15〜16節「主はモーセに言われた『何故,私に向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ,手を海に向かって差し伸べて海を二つに分けなさい。そうすれば,イスラエルの民は海の中の乾いた所を通る事が出来る』」。
モ−セは,恐れず神に信頼し”上に向かって祈り”ました…そして,真実なる神は”御言を語られた”のです…此処に,神の救いの戦いが始まったのです。
しかし,その”神の言”は”人の常識を遙かに超えたもの”だったのです。「海に向かって出発しなさい…海に着いたら、海に向かって杖を高く差し伸べなさい…そうすれば海は2つに分かれ,民は海の中の乾いた所を通る事が出来る」…こんな事を告げられたら,はたして直ぐに従う事が出来るでしょうか?
「海は本当に2つに分かれるのか?」先ず,この神の言を信ずる事が出来るか?と信仰が問われます。次に「もし,海が分かれなかったら,民に何と言われるか?…民は信仰を学ぶ所か失ってしまうのではないか?」等の臆病との戦いがあると思います。
これらの迷いは,誰にも責められないと思います。しかし,此処でモ−セが従わなかったなら,世界最大の救いの奇跡は起こらなかったのです。イスラエルの民が信仰を学ぶ事も出来なかったのです。
主は,全てのキリスト者を,主の戦いに招いておられるのです。キリスト者は,世にある限り,主と共に戦わなければならないのです。しかし,人は弱いのです…
”戦い続ける”と思うだけで,目眩と溜息の中,視線を落としてしまう方もおられるかも知れませんが,主は,私共の弱さを十分御存知なのです。
主の戦いを,主と共に,戦おうとする者は”主の御目の前にいる”のです。御言を語られ,御自身の戦いに招かれる主は,人の弱さを真実に支えて下さるのです。
此処でも主はモ−セを助けられました…それ迄,イスラエルの民の前を進んでいた”雲の柱”が人格を持つ様に動き始め,イスラエルの民の後ろに廻り,エジプト軍との間に割って入って行ったのです。その為,エジプト軍は目潰しをくらい,イスラエルの民に接近出来なくされたのでした。そうした助けの中で,モ−セは一見とんでもない,この神の言に従う事が出来たのです。
”雲の柱による助け”…今も主は,キリストを信じる全ての者を,同じ様に助けて下さるのです!…ローマ8:26「同様に“霊”も弱い私達を助けて下さいます。私達はどう祈るべきかを知りませんが“霊”自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成して下さるからです」…御霊なる神が,言葉に表せない(切なる)呻きをもって,私共を祈り助けて下さっているのです。
私共は1人ではないのです。苦しみの中,どんなに孤独を感じる時でも,私共は主イエスの御目の前にあるのです。そして,私共の内では”聖霊なる神”が”切なる呻きをもって祈り執り成して下さっている”のです。雲の柱に代わって聖霊なる神が,助け支えて下さっているのです!
この”雲の柱”はエジプトの軍勢にも見えていました。しかし,信仰無き彼等には,そこに”神の御業”を認める事が出来ず,雲の柱を挟んでイスラエルの民と向かい合い続け,その緊張は極限状態に達した時”神の時が至った”のです。
モ−セは,主に対する全き信頼をもって,杖を海に向かって差し出しました…そして,その時”十字架に次ぐ,人類史上,最大の救いの御業が起こった”のです。此処に民は”全治全能なる主の戦いに預かる”と言う事がどんな事かを学んで行くのです。私共も,全知全能なる主の御言を,静かに,深く,信じて行く時,主の救いの戦いの目撃者となる事が出来るのです。