主の家族
マルコ3:31〜35
3:31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
3:32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、
3:33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、
3:34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
3:35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


      主の家族

 今日,多くの家族が主イエスの外に立っています。毎日の様に,聞くに耐えない幼児虐待のニュース,荒む子供達のニュース,また,結婚して本当に良かったと,お互いに思っている夫婦は5%と言うアンケートもある程です。
 今朝の物語は,そうした家族の回復の道を示している箇所なのですが,しばしば,主イエスが親兄弟をないがしろにしたと誤解される箇所でもあります。
 大勢の人々がイエス様の周りに座って主の話に聴き入っていた時,イエスの母と,兄弟達がやって来て,主を取り囲んでいる人々の”外から”人を遣わして主イエスを呼び寄せたのです。そして,そこで発せられる,主イエスの”肉親との断絶の宣言”ともとれる言葉に,この周りに座っていた人々と共に,私共も,はっと目を上げるのです。そして私共が,この主の言葉に目が開かれる時,私共が,家庭が,教会が”主の家族”として,真の姿に回復して行くのです。

  T、外に立つ家族
 この出来事の意味を学んで行くにあたり,先ず31節の”外に立ち”と言う言葉が目に留まります。主イエスの家族は,主のお話しに聴き入る人々の”外に留まった”のです。
そして,その”外から”イエスを呼びつけたのです。自分達はイエスの家族であり,遙々ナザレからやって来たのだから,当然イエスは自分達に会う事を優先すべきだと思ったのです。しかし、そうした思いに対して主は33節「私の母,私の兄弟とは誰か」と”肉親との断絶の宣言”ともとれる言葉を告げたのです。

  U、新しい主の家族
*主は何故,人々から誤解を生む”肉親との断絶の宣言”ともとれる発言をしたのでしょうか?…21節を見ますと”主イエスの肉親達が,イエスが気が狂ったと思い取り押さえに来た”とあり…主の家族が「私の良く知っている息子が,兄が,私達の理解出来ない事をしている」と心配して,主の業を止めさせに来たからでした…動機は愛なのですが,それは主イエスの業を止める事だったのです。
 この時の主イエスの説教や御業は”救い主の御業”でした。救い主として聖霊の油注ぎを受け”神の国=愛の神が力をもって支配される世界を(天国)”を,この世に垣間見る様に実現すものだったのです…確かに,それは肉親達には分からない世界でした。その結果,主の肉親達は,主との交わりに入ろうとせず壊そうとしたのです。
・では,主を理解する道はどんな道なのでしょうか?…Tコリント15:50に「肉と血は神の国を受け継ぐ事はできず,朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」とあります…”主を理解し,神の国を受け継ぐ(主の家族となる)”のは”肉と血”によっては出来ないのです。
・そして”主を理解し,神の国を受け継ぎ(主の家族となる)その道”はUコリント5:16-17にございます「それで,私達は,今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても,今は,もうそのように知ろうとはしません。だから,キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り新しいものが生じた」…イエスを救い主と信じ,聖霊によって主と結ばれる事なのです…そして,そこでは”血のつながりでない、天的な絆による新しい主の家族が形成されて行く”のです。
 勿論,主イエスは家族を捨てられる方ではありません。十字架に付けられた主イエスが,十字架の足下まで来た唯一人の弟子ヨハネに「マリヤを自分の母と思って世話をして欲しい」と言われた事に全て現されています。断末魔の苦しみの時に普段心に無い思いが出て来る筈がないからです。
 主イエスは肉親にも,肉によって主を知る事を捨て,真の主の家族になって欲しかったのです。主は此処で決して,家族を捨てて,無視する事を勧めている訳ではないのです。イエスを主とする天的な交わりに生きる事を、肉のつながりよりも優先させたに過ぎないからです。何故なら,そこに正しい家族の回復があるからでした。

 V、御心に生きる主の家族としての教会

*35節を見ると,主イエスの真の家族とは「神の御心を行う人こそ,私の兄弟,姉妹,また母なのだ」と記されております。この”主イエスの御心を求め,御心を行…主の家族”こそが”教会”なのです。
 教会は”イエスを主とする霊の家族”として”御心に生きる”歩みを”神の御心に生きた主イエスから学ぶ”のです。
 主は十字架の上で「エロイエス、エロイ、ラマ、サバクタニ=我が神〜どうして私をお見捨てになったのですか?」と叫ばれました。その叫びは「神様、あなたの御心は何処にあるのですか?」と言う深い祈りであり,自身の命を賭けた問いなのです。 また,主は,十字架の前の晩,ゲツセマネの園で,血の汗を流しながら「御心をひたすら求めつつも,父よ,あなたの御心が行われますように」と祈り抜かれたのです。この様に生きられた主だけが”神の御心に生きる事”を語る事が出来,また,その”主イエスが聖霊により内に居て下さる”ゆえ,私共も”神の御心に生きる事”が出来るのです。
 この世界は”神の御心に反する世界”です。例えば戦争です。先日”銀さん”が亡くなられました。追悼番組で,金さんか銀さんか忘れましたが,先の大戦で肉親を亡くされ,その戦争後「あんなトロイ(愚かな)事,お金を払ってするなんて」と言われたと言っておりました。この世は,神の御心に反する愚かな事を繰り返します。そして、私達自身も,神の御心に反する事を繰り返している事をも覚えます。
 主イエスは”父なる神の御心”に沿わない,この世界に苦しまれ「父よ,御心を行って下さい」と祈り十字架で死なれたのです。
主の祈りに”御心が天で行われる様に地でも行われますように”との一文がございます。私共…つまり”教会”は,神の御心に反して進んで行く,この世にあって,主の苦しみを我が苦しみとして「御心が行われますように」と祈り”神の御心に生きる群”なのです。
 家庭に於いても”神の御心を求め,神の御心を生きる事”を家族と共に願い祈り始める中で,家族は”主の家族”とされ”家族が回復”されて行くのです。
 また,この”家族の回復”は,教会にも言えるのです。教会は”主の家族…主の兄弟姉妹”だからです。教会は「御心が行われますように,地にもなさせたまえ」と”主の御心を祈り求め,主の御心に生きて行く”のです。
 先週,役場の方が来られ,やがて教会の前の道路が2倍に拡幅され,前の駐車場が3m程削られると伺いました。前には駐車出来なくなると考えて差し支えありません。頭を抱えます…しかし,私共は,この事の中にも神の摂理を信じ,神の御心を祈り求めつつ踏み出す事を迫られていると信じます…こうした中で土居教会は,主イエスに「此処に私の母がいる。私の父,兄,妹よ」と呼んで頂く”主の真の家族”として形成されて行くのです。