「開かれた人生」
マルコ7:31ー37
7:31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。
7:32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。
7:33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
7:34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
7:35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。
7:36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。
7:37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
開かれた人生
*地中海沿いの異邦人の地であるティルスで、カナンの女の祈りを聴かれた主イエスは、更に北上してシドンを経由し、東方のデカポリス地方を通り抜けてガリラヤ湖の海辺に戻られました。
家内は、この地図を見て「どうしてこんなに遠回りしたの?」と言いましたが、確かに誰もがそう思う程の遠回りなのです…土居から松山に行く為に、わざわざ高松→徳島→高知→四万十→大洲→松山へと遠回りする様なものなのです。
何故、主イエスは、その様な道を辿られたのでしょうか?
”カナンの女の信仰によって、異邦人宣教へと引き出されたから”です。
主イエスが通られた、”この道は、ユダヤ人にとっては異邦人の地、しかも辺境の”神の恵みの光が届かない”と考えられていた地”だったのです。
主イエスが、そうした地へ赴かれ、そこで出会った”耳が聞こえず口のきけない人を癒された”のが今朝の物語です。
今朝は共に、主イエスが耳を開かれた出来事から”神に開かれた人生”について学んで参ります。
T、主イエスとの出会い
”神の恵みの光が届かない”と言われていた辺境の地に住んでいた、この”耳が聞こえず口の回らない人”は、「神に見捨てらている」と言われ、どんな絶望の日々を過ごしていたのでしょうか?
心ない偏見と差別を受ける地に住み”同じ絶望を味わっていた”彼の周りの人々には、この”耳の聞こえない男の痛みが分かったのです”…人々は「この人を何とかしてあげたい」との思いで主のもとに連れて来て「手を置いてやって頂きたい」と願ったのです。
”救いの第一歩は、主イエスとの出会いによって始まり”ます…そして、その背後には「どうすれば、この人を主の下にお連れ出来るだろうか?」との”祈りから生まれる配慮”があるのです。
主イエスは、連れて来られたこの人を群衆の中から連れ出されました…それは、”この男と1対1の人格的な出会いをする為”だったのです。
そこで主イエスは、彼の”両耳に指をさし入れ、つばきで舌を潤された”のでした。
不可解な行動です…しかし、この”男の病んでいる所に手を触れられた”という主の行為はコミュニケーションの手段を失っているこの人にとって、”主の言葉”だったのです。”言葉以上の言葉だった”のでした。
主イエスは”言葉をもって人と出会い…心に触れて下さる”のです…こうした”主イエスとの心と心の出会い”こそが、私共が”神との命の交わりに開かれる第一歩”なのです。
そして、今、私共が通過しているアドベントこそ、”1対1で…主イエスを私の心にお迎えする”という”真実なクリスマスの備えの時”なのです。
U、手を差し伸べられる主イエス
天地創造を読みますと、”神様は、御自身と心通わせ語り合う相手として、特別に人間を造られた”事が記されております。
故に”人は神と出会う事なしに、真の心の満たしには預かる”事が出来ないのです…それ故キリストは、私共に対して”神との交わり(神に開かれた人生)”へと”手を差し伸べておられる”のです。
それは、御言葉によって人を”受けいれ赦される事であり、心や躰を癒される”等の”先行的な恵み”なのです…此処でも主イエスは、”耳を開き、舌のもつれを解くという癒し”をもって、”神に対して心開かれた人生へと手を差し伸べられた”のでした。
この”癒しの意味”を解く鍵は「舌の回らない」との言葉です…この言葉には「舌がもつれる」との意味がございます…実はこの言葉は”イザヤ35:6と此処だけ”のものです。
イザヤ書35章は、”終末時(世の終わりにイエスが再臨される時)に、”神の完全な愛の御支配が地上に実現する時の様子”を描写している箇所です。そしてその時”舌の回らない人の舌が解かれる”と預言されているのです。
この”主の御業は世の終わりの先取りだった”のでした。
”神の御支配の下にない人の舌はもつれる”のです…故に、この”舌がもつれる”事は、”他人事”ではないのです。
「信仰の言葉を語りたい」と思っても舌がもつれ、「隣人に対し、塩で味付けされた愛の言葉を語りたい」と思っても、もつれてしまうのです。「神へ賛美を献げたい」と思いながら、心がもつれて賛美が出来ない事があるのです。
耳も同じです…神の言葉や人の言葉に対しても、”耳が閉ざされて素直に聴けない”のです。
神に近づこうとすればする程、こうした”神様との隔たりに気づき、魂が「ギーギー」ときしむ辛さを経験する”のです。
故に、この主イエスの癒しの御業は、”神との隔たりの癒し”であったと気づくのです。
今年の夏、20年前に私共の教会を牧会くださった加藤牧師が説教の御奉仕をして下さいました。その折りに様々な事を語り合う事が出来感謝でした。
加藤牧師の奥様は私が聖書学院に入学する前に卒業された方です。
でも大会等で、聾唖者であった彼女の手話を拝見する機会がありまして、その恵まれた笑顔に主の御臨在を感じたものでした。
キリスト者に成る前は、暴走族だったとかお聞きしましたが、そんなかけらも感じる事も出来ませんでした。
私が知る彼女は生まれながら鼓膜が無い難聴の方でした。
今年、加藤牧師が来られる前に電話をした時奥様が出られました。正直「どうやってお話しようか?」と思いましたが、何の問題も無く会話が出来るのです。「アレッ?」と思いつつ受話器を置き、後で加藤牧師よりお証を伺い訳を知りました。
昔、奥様がバイブル青年キャンプに参加された時、講師の先生が加藤夫人を見つめられ「主の癒しを信じますか?」といわれたそうです。
その時、彼女の内にも信仰が与えられ「信じます」と答え…祈って頂いた瞬間、鼓膜が無いのに聞こえる様になり始め、暫くのリハビリの後、補聴器をつけると普通に聞こえる迄回復されたのだそうです。
勿論、神の御心と、牧師、加藤夫人の三者の信仰が一致する時だったのかも知れませんが、そうした経験の中、彼女には「この主イエスの御支配に人生を委ねたい」との思いが与えられたのだそうです。
この様に”差し伸べられた主イエスの御手に人が触れる時、人は主イエスの愛の御支配に人生を委ねたい”と願う様になるのです。
V、開かれた人生
主イエスは、この癒しをなさる際、「天を仰いで深く息をつき、それから『エッファタ』と言われ」ました。
この時、主は「天を仰がれ」たのです。
五千人の給食の時も、主は2匹の魚と5つのパンを手に取り、”天を仰いで祝福”されました。これは、イエスの”力の源泉が何処にあるのか”を示しております…主は”何時も神を仰いで祈られた”のです。
次に”深く息をつかれた”のです。
ある注解書には、この”深く息をつかれた”というのは「精神的な興奮」を現すとありました”心極まる”という事です。
ローマ8:26に「御霊の呻き」とのありますが、これは”祈り求める者の苦しみや痛みを、我が苦しみとして呻く聖霊なる神の呻き”の事なのです…この主イエスの”深い溜息”も、”この男の痛みを我が痛みとし…心極まった主の言葉にならない呻き”だったのです。
主は最後に「エッファタ(開け)」と言われました。
新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、この言葉は、主が使われていたアラム語のままです。それ程この”「エッファタ」との主の声の響き”には、聴いた人が忘れる事の出来ない”迫る思いが込められてい”たのです。
主は、この「開け」という言葉を、主の御前にいる1人の男の”耳や口”以上に”心”に向けて語られたのです…「あなたの心も、神に向かって開かれます様に」との祈りだったのです。
そしてその時、この”男の耳が開き舌のもつれが解けた”のでした…何よりも、これは”イザヤ書の預言の成就だった”のです…”主の愛の支配の中に生きる人生が開かれた”のです。主イエスの何よりの願いは”人と神との関係が開かれる事”なのです。
これは”クリスマスの本質”です。たとえ耳が聞こえ言葉を話せても、”神との関係が閉ざされているならば、私共の人生は、やがて閉ざされて行く”のです。
ファリサイ人達は、食前に手を洗わない主の弟子達に対し「聖くない」と”聖め”の問題を突きつけましたが、”真の聖さ”は”心を開いて聖い主を心にお迎えする事”なのです。
この朝、主は私共に対しても、”主イエスに対して開かれ続けた人生を願っておられる”のです。