「主の恵みを忘れずに」
マルコ8:1ー21
8:1 そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。
8:2 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。
8:3 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」
8:4 弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」
8:5 イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。
8:6 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
8:7 また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。
8:8 人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。
8:9 およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。
8:10 それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。
8:11 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。
8:12 イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」
8:13 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。
8:14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。
8:15 そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。
8:16 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。
8:17 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。
8:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。
8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。
8:20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、
8:21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


  主の恵みを忘れずに

   
*今年最後の主日に開きます聖書の箇所は、あの主イエスの最大規模の奇跡である”5千人の給食”と同じ様な”4千人の給食の奇跡”です。

年の瀬の忙しい時ですが、しばし心を静めて御言葉に聴きつつ、この1年の主イエスの恵みを顧み感謝を献げる時としたいと願っております。

主イエスがパンを裂いて多くの人々を養われた奇跡については以前にも述べましたので、今朝は、この時に語られた主の言葉から御言葉に共に聴いて参ります。

  
T、悟らないのか?

 18節で主イエスは「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」と言われました。

此処の「覚えていないのか?」は「もう忘れたのか?」という事です…しかも、この物語は21節の「まだ悟らないのか?」との言葉で終わっているのです。

 では弟子達はこの「何を覚えていなかった、悟らなかったのでしょうか?」…聖書は”4千人の給食の奇跡”と「悟らないのか?」との主の言葉の間に、”ファリサイ人達との会話を挟んでいる”のです。

それは、そこに”「パンの奇跡を弟子達がどう悟らなかったのか」についての答えがある”からです。

 ファリサイ人達は主イエスに対して”救い主の徴”を求めたのです…それ自体は良いのですが、よく読んで参りますとファリサイ人達の求めの”ズレ”に気づきます。

 ファリサイ人達の”ズレ”は、”主イエスを試そう”として”「あなたが天的な救い主である事を、私達が認める方法で見せて見ろ」と主イエスを見下ろして試みた”所にあるのです。

 此処が問題なのです…”見るべき物がみえていない。聴くべき物が聞こえていない”ファリサイ人達が、自分こそ、救いを求めるべき者である事を忘れ”傲慢に主を試みた”のです。

勿論、主はそんな”不遜な求めを断固拒否”なされました…「はっきり言っておく。今の時代の者達には、決してしるしは与えられない」と…。
 「はっきり言っておく。決して…でない」と言うのは、”断固とした拒絶の言葉”です。

そして「今の時代」には”徴”が”決して与えられない”と言われたのです。

 では、それは”どんな時代”なのでしょうか?…「ドロドロとした人間の罪が支配している時代」…つまり「人が罪の世に身を委ねている時に私は徴を見せない」と言われたのです。

”救い”は、”「聴く耳をもって求める者にしか与えられないもの」”だからです。

 こうした論争の直ぐ後、主イエスは弟子達を舟に乗せてガリラヤ湖の向こう岸へと向かわせました。

”弟子達は此処でもパンが足りない事に気がついた”のです…弟子達と主イエスが乗り込んでいた”舟の中にパンが1個しかなかった”のです。

けれども隣には、先程、”7つのパンと小魚を持って4千人を養われた主イエスがいる”のです…皆が主イエスにパンの奇跡を期待したに違いありません。

しかし主は、空腹な弟子達を無視される様に、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言われたのです。

 これも良く分からない言葉です…”ファリサイ人”は、先程の主イエスとの問答にも現れている様に、高ぶって”信仰の命を失っていた人々の代表”でした。

一方、”ヘロデの仲間達は、現実主義者の代表”だったのです。当時イスラエルを占領していた”ローマの権力に妥協し上手く世渡りをする者が勝つと考えていた人々”だったのです。

 主は「その様な人達はパン種だから気をつけなさい」と言われたのです。

パン種は小麦粉を膨らませてパンにするイースト菌です。主は「そんな小さなものでも心に入り込んだら信仰を壊わしてしまう」と言われたのです。

何故なら、”信仰は現実の問題の最中で、不安の中で、御言葉と共に天より与えられる静かな平安”だからです…現実ばかりに目を取られますと、途端に不信仰が膨らみ、生きて働いて下さる主イエスを忘れてしまう”からです。

 主イエスが空腹の弟子達を無視する様に、この厳しい言葉を語られたのは…弟子達の内にも、ファリサイ人達やヘロデの仲間達の様に「主イエスの御業を見ても、聞いても、現実に目を取られて、生きて働いて下さる主を忘れ悟らない頑なさ」を見抜かれたからです。

 主イエスは「私は2度も大きな〜奇跡をしたのに、あなたは何故、悟らないのか?見えないのか?聞こえないのか?覚えていないのか?」と言われたのです。

  
U、悟るべきもの

 では弟子達は、主イエスが、”どの様に生きて働いて下さる”事を悟るべきだったのでしょうか?…それは”主イエスが憐れんで下さる御方である”という事です。

 主は”2度の奇跡の意味”を語り始めました。

奇跡の意味を示す為、前回とは違う行動をとられているのです。

”前回は、弟子達が群衆の食事の心配をしましたが、今回は、主御自身の方から「群衆が可哀想だ」と心配された”のです。

「群衆が可哀想だ。もう三日も私と一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れ切ってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」…張り裂けんばかりに必死な群衆の苦しみと求めを感じます。

 主はそんな”人々の空腹や疲れ切る事を憐れまれた”のです。この「可哀想だ」との言葉は、「お可愛そうだ」と言う軽い言葉ではありません。「腸が千切れる程に痛む、胸が潰れる程に痛くなる」事です。

”神や主イエスの激しい愛を語る時だけに聖書が用いる言葉”なのです。

 このクリスマスに、恩師からクリスマスカードを頂きました…そこには、「この秋のテロを見た時、”言葉を失ってしまった”…多くの友人の祈りと助けによって乗り越えつつありますが辛い経験でした」と書かれておりました。

それは単なる絶句ではなく、”説教者が説教の言葉を失う…語れなくなる程に痛まれた”という事です。

確かに、あのテロ事件には皆が大きなショックを受けました…それでも人は、「その先生はナイーブ過ぎる」と思われるかも知れません。そうではなく先生は、”隣人と共に痛み、隣人を癒される賜物をお持ち”なのです。

しかし、本人にとっては”辛い賜物”だと思います…”心と体調を痛められるから”です。しかし、私は何時もそこに”アガペーの愛を見る思いをする”のです。

 この”主イエスの心の痛み”は、”ファリサイ人達と議論”された12節にもございます「イエスは心の中で深く嘆いて…どうして今の時代は徴を欲しがるのだろう」…主は”深く嘆かれた”のです。

この「深く嘆く」には「呻く」という意味もあり…主はファリサイ人のみならず、弟子達迄が「主イエスが憐れむ御方」だと”悟らない、覚えていない事”に、怒りを通り越して”呻かれた”のでした。

 後に、”十字架により主イエスの憐れみの愛”を痛い程に知った弟子達は、「まだ悟らないのか?」との主の言葉を何度も〜思い出したに違いありません。特に、この”パンを裂いた奇跡”を彷彿させる”聖餐式の度毎に痛みをもって思い出した”と思うのです。

 ”聖餐式は、最後の晩餐から始まり”ました…そして、この”最後の晩餐”の時こそが、弟子達の”悟らない罪が最も鮮やかに現れた時だった”のです。

”最後の晩餐は、イエス様が、これから十字架で、躰が裂かれ、血を流される事を示した食卓”でした…弟子達は”パンを食べブドウ酒を飲んだ”その夜、”イエスを捨てた”のです。

 「後で分かる親の恩」という言葉がありますが、後に弟子達は”十字架を記念する聖餐”に預かる度毎に、「もう忘れません…あなたの憐れみを…鈍い私を赦して下さい」と痛々しく呻いた”と思うのです。

しかし弟子達は”主が臨在される”…その”聖餐”の場において、”悟らなかった自分の罪が、十字架の血潮で覆われ赦される主の憐れみを悟った”のです。

 さて”5千人の給食の奇跡”では余りが”12籠”ありました…この12は”イスラエルの12部族”…つまり”イスラエルを憐れまれる主”を現しており…そして今回の”4千人の給食”の奇跡での余りの”7籠”の”7”は、”全世界”を現しているのです。

この”主の憐れみの愛は私共にまで及ぶ”のです。

今朝は年末感謝礼拝です…思い返せば闇に覆われた事の多かった1年でありました。今朝、私共は”腸が千切れる程、胸が潰れる程に憐れみ続けて下さった主イエス”を、決して”忘れる事なく共に感謝を献げ”来たる年を迎えたいと思います。