「第五の戒め」
出エジプト20:12
20:12 あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
第五の戒め
*今朝からアドベントが始まります…一週毎に近づく主イエスの御降誕を迎える心備えをする時です。
主イエスが私共の為に御降誕下さった意味を心に巡らしつつ、今朝も御言葉に聴いて参ります。
今朝の聖書の箇所は、有名な「あなたの父母を敬え〜」という十戒の”第五の戒め”です。
この”第五の戒め”より、十戒は後半に入って参ります…前半と後半との違いは、しばしば十字架によって説明されます…つまり、”十字架の縦(神に対する生き方)と横(隣人に対する生き方)”です。
神は最初に、”神に対する生き方の戒め”を述べられ、次に、”隣人に対する生き方の戒め”を告げられました…何故なら、”神に対する生き様は、人との関係にも及ぶ”からです。
主イエスも、ゴールデン・ルールと言われる、”最も大切な戒め”を語られました。
マタイ22:37-39「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じ様に重要である。『隣人を自分の様に愛しなさい。』」…正に十戒そのものです。
土居教会の場合は、父や母、祖父、祖母の立場の方が多いのですが、今朝、私共は、この聖書の箇所から、最も近い隣人である”父母を敬う”という戒めから、”隣人を愛する信仰の戦い”を学んで参ります。
T、父と母を敬う訳
この”第五の戒め”や主イエスが語られた”最も大切な掟”から、如何に”隣人を愛する”事が”人間として生きる上で大切であるか!”が分かります。
人間にとって最も近い隣人は”父と母”です…母に至っては、母の胎内で養われたという、命と命の最も濃く深い関係の隣人です…聖書は、人との関係の一番始めの”戒め”として”父と母を敬いなさい”と告げるのです。
この”敬う”には”重んじる”という意味があり…「父母の重みをわきまえる」という事なのです…そして、”父と母の尊さを重んじる”事こそが”隣人の尊さを重んじる”事へとつながるのです。
勿論、”親孝行の大切さ”は皆が知っています…でも何故、”父と母を敬わなければならない”のでしょうか?…その答えは、この”戒め”の後半にあります「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きる事が出来る」…”長生きする為”なのです。
旧約聖書のアブラハム、イサク、ヤコブ等を族長と言います。族長は、家族の集まった大血縁集団のリーダーでした。そうした血縁集団の族長時代に、父と母を敬う事は何よりも大切な事でありました。
そして、この大切な”父母を敬うという戒め”を”守る者は、主が与えられる地で長く生きる”というのです。
どういう事かと申しますと、”父母を大切にする者は…父母を通して与えられた、この世の生を喜んでいる者”である…即ち、”神が造られた大地で…神に喜ばれながら生きる命…という恵みを父母に与えられた”と感謝するゆえに、父母を重んじるから”です。
聖書は”自分の命の重さを大切にする様になる”事を”長生きする”と表現しているのです。
神は、私共が”神に生かされている命を喜び、大切にする事を願っておられる”のです…
”長生き”は、私共の願望だけではなく”神の御命令”でもあるのです。
しばしば「好きな事をやって早く死んでも構わない」という言葉を耳に致します。しかし、”長生きが神の御命令なら、キリスト者は、自分勝手な生き方で命を縮めてはいけない”のです。
今、アフガンで戦争が行われています…日々、人と人とが殺し合っています。”聖戦”だと言って、戦闘に志願したり、自爆テロが行われております…しかし、神は決して”人が死に急ぐ事をお喜びにはならない”のです。
私共が、今、生きているのは父と母のおかげです。しかし、この命は父母の勝手な意志ではなく、”神の御意志による”のです…神が、私共1人〜を、”父母に「子」として委ねて下さった”のです。
昨今、頻繁に耳にする幼児虐待の事件を思う時、”親は、子供は、神に委ねられたもの”と知らなければならないと思わされます。
先週、Tちゃんが心臓弁の手術に備えて入院検査をされました。M姉も親族の方々も、どんなにか御心配な事かと思います…その検査の前に帰省され、礼拝に出席されたM姉と共に祈る時を持つ事が出来ました。
その時、辛い事ではありますが…「神はTちゃんを、M姉に委ねられたのだなあ」と思わせられたのです。
私共は、”神様から、この世に父母を通して遣わされた”のです。ゆえに、”命の担い手として神に用いられた父母を敬う”のです…”父母を敬う者は長生きする…命を大切にする者となる…生きる年月が長くとも短くても、命を精一杯生きる者と成る”のです。
U、隣人を愛する信仰の闘い
しかし、知っている事と行う事(そう生きている事)とは違います…隣人の代表である”父と母を重んじる事は容易い事ではない”からです。しばしば人は、この”戒め”において”自分の罪深さを知る”のです。
非行少年少女の多くは、自分の人生の転落は”親のせい(家庭環境)”と思っている場合が少なくない様です。
或る非行少年の更正の為のミッションスクールでは、先ず最初に「敵を愛する」という聖書の教えを教えるそうです…そんな彼等は「敵を愛しなさい」という、”戒めの厳しさ”を、悲しい事ですが”父と母を通して学ぶ”のです。
子供達は、”自分の人生を傷つけた酷い親を、愛し敬い重んじなければならないという壁の前に苦しむ”のです。
しかし、それは自暴自棄に陥っている少年・少女が、”自分の人生を大切にする様に成る為に通らなければならない戦い”なのです。
彼等が”人生を大切にする様に成る為”には、自分の命が、神に与えられた尊いものと知る”事が必要なのです…その為に”命の担い手として神に用いられた、父母を受け入れる戦い”を通るのです。中には”虐待を与えた親もいるのです…そんな親を受け入れる”のです。
そして、それは”私共の戦いでもある”のです…”耐えて父と母を重んじる戦い”は”隣人を重んじる戦い”でもあり…そして、それは”自分の命を大切にする事を知る・自分の存在意義を知る戦い”ゆえ”逃げてはいけない”のです。
しかし、それは分かっていても容易い事ではありません…そして、この”信仰の戦いの力は、十字架の贖いの愛より与えられる”のです…”神様が自分を尊い者と重んじ、十字架に架かって下さった”事を”知る中で与えられる力”なのです。
”生まれながらの人は皆、神の前に惨めな罪人”でした。聖書は更に、「私共は”神の敵”だった」とさえ語るのです…”神を重んじる事もなく、神に背き続けていた”のです。
しかし、”神は、そんな者さえ重んじ受け入れ続けて下さっていた事を、心の底で知る事により与えられる力”なのです。
”キリストが私を愛して下さった…ゆえに私共も隣人を愛する”のです。”父母の為、隣人の為「愛を下さい」と祈る”のです…愛が与えられる日まで祈り続けるのです。
また、古来教会は、この”戒め”を、大人に対するものとしても説いて来ました。
旧約聖書では、父は子供にとって”神の代理人”だからです…宗教改革者ルターは「神を重んじる教えに続いて、すぐ、父と母を敬う教えが続いているのは、父と母が、神の如くに重んじられる様に生きなければならない事を意味する」とさえ言ったのです。
父母を敬う信仰の戦いは”命を重んじる・自分を重んじる・隣人を重んじる・様になる為の信仰の戦い”なのです。
そして、この”戒めに生きる力”は、…”私共1人〜を十字架に架かる程までに、尊い者と重んじて下さった、主イエスの愛の中に、ゆっくりと立ち上がる事…によって与えられる”のです。