「人を汚すもの」
マタイ
15:10 それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。
15:11 口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」
15:12 そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。
15:13 イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。
15:14 そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」
15:15 するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。
15:16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。
15:17 すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。
15:18 しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。
15:19 悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。
15:20 これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」
ヨエル
2:12 主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ/断食し、泣き悲しんで。
2:13 衣を裂くのではなく/お前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに富み/くだした災いを悔いられるからだ。
2:17 祭司は神殿の入り口と祭壇の間で泣き/主に仕える者は言うがよい。「主よ、あなたの民を憐れんでください。あなたの嗣業である民を恥に落とさず/国々の嘲りの種としないでください。『彼らの神はどこにいるのか』と/なぜ諸国の民に言わせておかれるのですか。」
2:18 そのとき/主は御自分の国を強く愛し/その民を深く憐れまれた。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
人を汚すもの
*今朝の物語は、弟子達が食事の前に手を洗わない事を責められた事から始まった出来事です。
本来はマルコ7:14〜23なのですが、同じ出来事を深く記しておりますマタイ書からお話を致します。
今朝の説教のテーマは”汚れ”です。今、ニュースでは、毎日の様に、炭疽菌によるテロの事件が取り上げられております。米国の郵便局では、炭疽菌に汚染されない様に、戦々恐々する日々を送っている事と思います。
この当時の人々も、外から汚される事を同じ様に恐れていたのです。この朝は、”人を汚すものからの聖め”について学んで参ります。
T、人を汚すもの
律法学者やパリサイ人は、”人は外から汚される…だから〜するな、罪人と交わるな、手を洗いなさい等”と、人々を律法でがんじがらめにしていたのでした。
日本にも”お払い”がございます。災いや、忌むべき事を払い落とす事です…仏式の葬儀では、忌み嫌う”死”に汚されない様に、”聖めの塩”を渡します。
学生時代、義祖父の葬儀から帰って参りまして、家に入ろうとした時、親戚の方から「塩で清めなさい」ときつく言われ意味が分からずそうした事を思い出します。
また、此処で”汚す”と訳されている言葉は”世俗的”とも訳せる言葉です。更に、この言葉の語源は”コイノーニア(交わり)”と同じなのです。コイノーニア(交わり)は、キリスト教の雑誌の名にも使われており、聖書学院の宿泊棟にも付けられている名前です。
汚らわしいと見なされている人々…世俗に生きる人々と交わった時、また、汚れたものに触れた時、そうした”外との交わりが人を汚す”と考えていた、律法学者やパリサイ人達は、手を洗う事を厳格に命じたのでした。
しかし、主イエスは違いました。主イエスは”人を汚す”のは、外ではなく”内側…自分の心”だと言われたのです。
主イエスは、群衆を呼び寄せて語り始めました。大抵の場合は、群衆の方が主イエスに押し寄せておりました。しかし、此処では主イエスの方が、群衆を呼び寄せて語られたのです。
「あなた方も、まだ悟らないのか。全て口に入るものは、腹を通って外に出される事が分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、その事は人を汚すものではない」と、本来ファリサイ人に語るべき警告を語られたのでした。
主イエスは「その事を正しく教えない、ファサイ人達は盲人だ」と非難したのです…この”盲人”とは”神の御心を知る霊的な目が見えない”という事であります。
そして、「そんな、ファサイ人、律法学者に手引きされるなら、あなた方も穴に落ち込んでしまう」と言われたのです…この”穴に落ち込む”というのは”滅びる”という事でもあります。
ファサイ人、律法学者は、”自分達こそ、神に最も近い、神の御旨が良く分かる者達として自負していた”のです。そんな宗教家達に向かい「あなた達こそ、神の御心が分からず、周りの人々をも滅びに落としているのだ」と言われたのです…おそらく、その場はピーンと緊張感が張り詰めたであろうと思います。
神は「正しい者の上にも、悪しき者の上にも、等しく太陽を昇らせ、雨を降らせて下さる御方です…それは、全ての人を愛し慈しんで下さっている」からです…ですから「自分が汚れる事を恐れ、この人は汚れている、あの人も汚れているといって、人にレッテルを貼って遠ざける事は、主イエスの御心ではなかった」のです。
ゆえに主は”天の父の愛”を、罪人や売春婦達と共に食事をする事によって示されたのです。
主イエスは、罪人達との食事を通して、パリサイ人律法学者達に無言のメッセージを語っておられたのです…「他人のせいにするな。社会のせいにするな。あなた方の心が汚れている事をもっと真剣に考えなさい。あなた方の心が汚れているから、罪人や、取税人と共に生きられないのだ。共に食事が出来ないのだ。心が汚れているから、神の愛の素晴らしさを、忍耐深い愛をもって証する事ができないのだ」と。
此処で、もう1つ私共が心に留めなければならない事がございます…それは、主イエスがファサイ人の罪を非難された時、群衆に向かって、「あなた達は聖い」とは言われなかった事です。
いえ、むしろ「ファサイ人すら、この心の罪を逃れる事が出来ないとすれば、あなたはどうか?あなた方も、まだ悟らないのか?」と言われた事なのです…何故なら、それは私共への語りかけともなるからです。
U、人を汚すものの聖め
では、私共は、どうしたら、”罪を生み出す所の内なる心を聖める”事が出来るのでしょうか?
その鍵になるのが13節の御言葉です「私の天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。」…理解しにくい言葉です。
イザヤ書60章等に”イスラエルの民は神に植えられたもの”と語られております。”イスラエルの民は、特別に神に植えられた民族だ”と言うのです。
だから簡単に誰かに引き抜かれ枯れてしまう事はないとユダヤ人は信じたのです。確かに国が滅亡し20世紀に国が復興する迄の二千年間、民族が滅亡しなかったのです。
それは、ファサイ人達も同じでありました。”自分達こそ神に植えられた者”として、聖書を大切にして、ひたすら聖書の言葉通りに生きようとしていたのです。
しかし、そんな彼等に向かって、主イエスは「あなた方は天の父に植えられた者ではない。あなた方は抜き取られ枯れてしまう」と言われたのです。ファサイ人達がカンカンに怒るのは当然です…しかし、主イエスが、そこ迄言われたのは、彼等が”神から植えて頂いた根を勝手に引き抜いて、自分で植え直し…神に植えられた者でない者へと変質してしまっていた”からでした。
”教会は、神に植えられたもの”です。”私共は、神に植えられて生きているのです”しかし、罪の源である、心が汚れるに任せて、口から出る言葉が神を悲しませ、人々の心を刺し通し、”神に植えられた者でない者へと変質してしまい”、主イエスに「私のものではない。私の教会ではない。」と告げられる可能性がある事への深い恐れをもって歩まなければなりません。
では、どうしたら良いのでしょうか?…それは、”イエス様によって、私共の魂を、神に植えられた者として、新しい所に植え直して頂き続ける以外に無い”のです。
ヨエル書2:12〜13に「主は言われる『今こそ、心から私に立ち帰れ/断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく/お前達の心を引き裂け』あなた達の神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに富み/くだした災いを悔いられるからだ」と記されている様に
”自分の惨めさ、汚れを、しっかり認め、心を引き裂いて主イエスに立ち帰る”事が、”神様に新しく植え替えて頂く道”なのです。
しかし、パリサイ人達は”律法を守る事…即ち、行いによって、救いや聖さに預かると信じ、人々をも、その様に導いた”為、主イエスに”神に植えられたので無い者”と言われたのでした。
この、ヨエル書の言葉は”悔い改めへの招きの言葉”です…私共が、救いに預かる時に信じる、救いの御言葉には、必ず、その後に、キリスト者としての人生の祝福が記されていると言われます。このヨエル書にも、”心を裂いて主に立ち帰る者への祝福”が記されております。
ヨエル2:17-18「主よ、あなたの民を憐れんでください。あなたの嗣業である民を恥に落とさず/国々の嘲りの種としないでください。『彼らの神はどこにいるのか』と/なぜ諸国の民に言わせておかれるのですか。その時/主は御自分の国を強く愛し/その民を深く憐れまれた」…”この祝福が約束されている”のです。
”心を裂いて主イエスの下に帰る時、帰った者”には、「あなたの神は何処にいるのか?」と問われた時、”私共の人生を通し、教会の歩みを通し「あそこにいます。此処にいます」と言える、主イエスと共に生きる人生へと植え替えて頂ける”のです。
そして、私共1人〜が、土居教会という群れが、天の父を喜びをもって証する群れとして立ち行く事が出来るのです。