「主イエスの訪れ」
マルコ
6:45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。
6:46 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。
6:47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。
6:48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。
6:49 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
6:50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
6:51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。
6:52 パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
主イエスの訪れ
*「主が共にいて下さる」事は、キリスト者にとって「今更、何を…」と言う程に当然の事であります…しかし実際に「神様、どうして?」と問わずにおれない中で、神が沈黙されている様に感じる時、私共は何処まで”イエス様が共にいて下さる事”を信じ続ける事が出来るでしょうか?
先日の、同時多発テロで息子さんを亡くされた男性が「息子を亡くした喪失感を、これからの人生で乗り越える事は出来ないだろう」と沈痛な表情でインタビューに答えておりました。
あの阪神大震災もまだ記憶にございます。家族も家も失った老人は「これから何を目標に頑張りますか?」とのインタビュ−に暫く絶句した後「もう、生きていてもしゃあないやろ」と振り絞った声で答えられた言葉に胸が詰まったのを覚えております。
こうした特別な事で無くとも、心に大きな痛みを覚えている時に、傷口に塩を塗られる様な言葉を受けたり、自分の存在価値を見失うしなう様な挫折、また悲しみ等…気力が萎えてしまう様な中で、主イエスへの信頼を保ち続けて行く事が出来るだろうかと思います。
しかし、そうした”人生の嵐の中で、神の救いと慰めに預かる信仰”は”主イエスの御言葉を聞く事によってのみ与えられる”のです。
しばしば「私の信仰では、とても」とお聞きする事がございます…しかし、それは決して謙遜ではないのです。神の言葉を聴いていないので確信が無いのです。
強いとか弱いと言いますと、信仰も修行努力の様に感じます。そうではありません…”信仰は上から与えられるもの”…十字架で世に勝利された、主イエスの御言葉に聞く事によって与えられるもの”であり、決して人の内側から出て来るものでは無いのです。
今朝は”試練の中に主イエスが訪れて下さる事と、その主の救いに、どの様に預かって行くのか?”を学んで参ります。
T、試練の中へと進ませられた弟子達
五千人の給食の奇跡の後、主イエスは直ぐに群衆を解散させ、ガリラヤ湖の向こう側に舟で渡る様に命じられたのです。
群衆の注目を浴びる居心地の良い地から試練の場所へと進ませたのでした。主イエスは、今日も敢えて、私共を試練の中に送り出されるのです。
しかし,そこにはイエス様の大きな意味と御計画がある事が、イエス様だけ祈る為に山に登られた事から分かります。
主イエスが弟子達を”試練の中に送り出された意味”を、この時がどんな時であったのか?…背景を学ぶ中で見て参ります。
この時は、バプテスマのヨハネが抹殺され、主イエス御自身の十字架の足音が聞こえて来た時でした。こうした中、
”主は弟子達に信仰を教える必要を痛感された”と言うのが、その訳なのです。
主イエスは、その為に弟子達を試練の中に送り出し、ついて来た飼う者の無い羊の様な痛々しい群衆さえも敢えて解散させられたのです。
U、試練の中に訪れて下さる主
48節になりますと、話は弟子達に移って参ります。漕ぎ出した弟子達は、逆風に遭い、一晩中、暗い湖の上で恐れ苦しんだのです。
闇は、不安によって恐れや痛みを倍加させると言われます。私事ですが,20歳の時、交通事故で右手首を折って入院した事がありましたが、夜、消灯になると痛みが倍加したので暗くなるのが怖かった事を覚えております。
この時は、暗闇の上、暴風だったのです…土居の”やまじ風”は、日本三大局地風だとお聞きしました。ガリラヤ湖では、時々、やまじ風の様な突風が吹いて舟を転覆させると言います。
漁師だった、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは、その恐ろしさを知っていたがゆえ…彼等の目には、主イエスではなく、荒れ狂う真っ暗な波と、風だけが見えていたのです。
夜の明ける頃、そんな弟子達の所へイエス様がやって来られました。しかしイエス様は、その”舟の側を通り過ぎようとされた”のです…何故、すぐ舟に乗り込み弟子達を助けなかったのでしょうか?
旧約聖書で「通り過ぎる」との表現は”神顕現”を現しているのです。
例えば出エジプト33:22の「モ−セは、神の栄光が”通り過ぎる”迄、岩の裂け目に入れられて”通り過ぎる”のを待った」等です…弟子達を助ける為”波の上を歩いて訪れたイエス様は神だった”のです。
所が弟子達は、そんな主を幽霊と思い恐れたのです。
此の49節には”動詞が三つ重ねられて”おります。「見て/思い/叫んだ」…”動詞が重ねられる構文は強調を表します”が、更に50節で「皆はイエスを見て怯えた」と念を押すように”弟子達の恐れを強調”しているのです。
この様に念入りに語られるのは、此の記事が”特別な性質を持っている”からです。読む人が”どんなつもりで読むかで、結果に大きな違いを生むという性質”です。
つまり”歴史家の様に読む”か”信仰者の様に読むか”です。歴史書として読むならば、この記事は神話に映るでしょう。しかし、イエス様を”救い主として信じる者”にとっては、”大変な慰めと平安が与えられる力ある出来事”となるのです。
弟子達のそばに”主イエスは生ける神・救い主として”歩いて行かれたのです。しかし、不安と恐れに心が奪われていた弟子達の信仰は「幽霊」の様に実体を無くし、主イエスを幽霊だと思い恐れ叫んだのです。
すると主イエスは「すぐ彼らと話し始めて『安心しなさい。私だ。恐れる事はない』と言われ…舟に乗り込まれると、風は止んだ」のでした。
このイエス様の行動も「話し始めて/言われた」と、動詞が二つ重ねられて強調されております…52節では、この出来事を、先の五千人の給食の奇跡と結びつけ”信仰を悟らない、弟子達の心の鈍さ”を提示して、この物語を締めています…イエス様は、鈍い弟子達の所を訪れ「恐れるな、私である」と心を込めて語りかけたのです。
では何と語りかけられたのでしょうか?…「私である」と語られたのです。
この言葉は、ヨハネ福音書の「私は〜である」と同じ言葉であり、モ−セに「私は、在って在る者」と語られた言葉と同じ意味なのです。
つまり「私は〜である」=「私は神である」と言う事であり…「安心しなさい、私である恐れる事はない」は「私こそ神である…だから安心しなさい」と主は心を込めて語られたのです。
孤独と恐怖のただ中で”十字架で勝利された、神なる主が、私共の下に来て下さり…「安心しなさい」と言って下さる事を知る”…”神が人と共にいて下さる=インマヌエルの神を知る!…そこにこそ本当の平安がある”のです。
詩篇119:71に「苦しみに遭った事は、私に良い事です。これによって私はあなたの掟を学ぶ事が出来ました」とございます。
主イエスは、私共にその事を学ばせる為、時に試練を許されます…しかし、その後、私共をじっと見守り”背後で祈り続けて下さっている”のです。
更に”悩みの中に近づき御言葉をもって救い、守り、癒し、導いて「あの試練は私にとって良い事でした」との経験迄変えて下さる”のです。
私共はこの朝”91才の大西姉を通し、どんな試練の中でも主が共にいて下さる事を、そして、そんな主に対する姿勢を大西姉を通して私共にお教え下さっている事”を心に受け留め…”どんな時にも主に目を注ぎ主を信頼したい”。
そして私共は、この信仰により、世の嵐からの神の救いを体験して行く事が出来るのです。