「第三の戒め」十戒
出エジプト
出エジプト20:7 「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」。
ルカによる福音書
ルカ1:50に「その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
十戒:第三の戒め
*この十戒の第三の戒めは、しばしば「神様の名を唱えると、神の罰を受ける事になるから、神の名は出来るだけ口にしない方が良い」と受け取られて参りました。
「みだりに唱えてはならない」という、この戒めの”みだりに”という言葉の、何処までが”みだりに”であって無いのか分からないからです。
下手したら、みだりに神の名を唱えて、神の罰を招いてしまうかも知れない…それなら使わない方が良いと考えるのは当然です…実際、ユダヤ人の社会では、長い間”神の名”が使われず、そんな中、神の名の呼び方(発音)が分からなくなってしまったのです。
神の名の”子音(YHWH)”だけは、文字によって書き記され伝えられて参りましたが、母音が省かれた為、発音が出来ず、やがて発音が分からなくなってしまったのです。
考えれば、神の名を呼ばずに信仰生活は出来ません。礼拝は勿論の事、人に神の名を呼び求める事を教える伝道も、祈る事さえも出来ないのです…そこで、神を呼ぶ方法を昔の人は考え出しました…それは「主の名」と呼ぶ事でした。神の名そのものでなく”主の名”と呼べば、間接的だが”神を呼べる”から丁度良いと考えたのでした。
旧約聖書で”主”と呼び記されているのがそれです…後に、この言葉”「主の名(アドナイ:adonay)」という言葉の母音”を、発音が分からなくなった”神の名YHWH"という子音だけの文字に当てはめて「ヤーウェ」と呼ばれる様に成って参りました。
以前は「エホバ」と訳されていましたが、これは完全な誤訳だとハッキリして参りましたので、聖書や聖歌からは姿を消して、今は「ヤーウェ」と呼ばれています。
所で、この”第三の戒め”は本当に”神の名を呼ぶ事を禁ずる”事を求めているのでしょうか?
T、戒めの意味
*科学の時代と呼ばれる現代も、神々の祟りに対する恐れに縛られております。それらの恐れは地鎮祭などに見る事が出来ます。科学の粋を尽くした近代建築をする場合にも地鎮祭をするのです。まして、昔の事ですから、”罰する”と言われた神の言を恐れるのは当然だったのかも知れません。
この戒めを正しく捉える為の”キーワード”は”みだりに”という言葉です。この”みだり”という言葉は、国語辞典では”規則に外れた事、法を無視して勝手な振る舞いをする事”となっております。一言で言えば”作法をわきまえない”という事です。
作法というものは、人が他者と生きていく時に”相手を重んじる”事です。ですから”みだりな事をする”というのは、”自分が主人公となって、隣人を軽んじ、相手が傷ついても構わない様な、自分勝手な振る舞いをする”という事なのです…”自分勝手な思いで神の名を呼び、神の名を利用する”という事こそが”みだりに神の名を唱える”事なのです。
しかも、この”第三の戒め”の始めには、はっきりと”あなたの神、主の名を”と記されております…此処が大切な所なのです。”神様が主人”なのです。しかし人は、しばしば神様に対し、自分が主人公である様な不作法を犯してしまうのです。
ここ暫く、転職というものが流行りました。不況による転職は仕方がございません。どんなにか大変であろうと思います。又、どうしても自分の適正と合わないからと、苦労の後の決断をされた方もおられると思います…しかし、今の若い方々の中には、過保護に育つ中”家庭の主人公”と化してしまった子供が、社会や、会社でも「自分を主人公として扱ってくれないから、面白くない」と安易に辞める事が余りにも多い様に感じるのです。
勿論、そうした姿勢は”神との関わり”にまで及んで参ります…新来者の多くは、何かに行き詰まったり、乾きや求めをもって、敷居が高いと言われる教会の門をくぐって来会されます。
教会は、そうした方々を歓迎し大切に致します。勿論、これは素晴らしい事であり大切な事であります。しかし、うっかりすると、そこに”甘えが生まれる”という落とし穴が待ち構えてもいるのです。
「教会は私を大切にしてくれる。当然、神様も自分を大切にしてくれる」…そこまでは良いのです…しかし、それがやがて「神様も、自分の願い通りに動いてくれる」との思いになり、神を「私の役に立つ…神」(神を僕とする罪)としてしまうのです。
アフガニスタンのタリバンという政府が、恐怖政治をする為に”神の名”をもって、見せしめの公開処刑をしているシーンを見ました。そこには神の名による赦しも、愛の香りのカケラもありませんでした…正に、神を利用しているのです。
確かに神様は私共を”神の1人子を十字架に架ける迄大切に”して下さっております。しかし、その神様と共に生きて行く信仰生活は、”神の言に聴き従う”という、誰もその間に踏み込めない、”神と私の間の厳しく真剣な交わり”があるのです。
教会は、”人の弱さを徹底的に受け入れる”所です。何処までも人を大切にする所です。しかし、”甘えは受け入れない”所なのです…何故なら、”甘えは…神と人との関係を崩して行く”からです。
この”神に対する甘え”こそが、”みだりに神の名を唱えるという事”であり…そして、この事こそが、”第三の戒め”の”みだりに神の名を唱えてはいけない”という意味なのです。
U、戒めが求める事
この”第三の戒め”をもって、神が私共に求められた事は、”神を恐れ御名を呼ばない”事でなく、”神の名を、神を主として呼ぶ”事なのです。
”第二の戒め”の「自分の為に偶像を造らない」事と同じ様に、「自分の為に(自分勝手な思いで)、神の名を呼ばない(利用しない)」という事なのです。
此処で、もう1つ心に刻みたい事がございます。十戒の一番始めにある「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と”神が言われた言葉”です。
”主である神が、私共を愛して救って下さった”…此処に、”私共が十戒を尊び守る心”があるのです…私共が”神の戒めを守る”のは、”私も神を愛する”と言う、”神の愛への応答”なのです。
しかし、イエス・キリストは”もっと深く、もっと広く私共を愛し救って下さいました”。私共を”罪の奴隷から、永遠の滅びから救う為、神である姿を捨てて人となられ、私共の全ての罪を背負って十字架で死んで下さり、更に、死を滅ぼして甦られ、罪の赦しの成就と、永遠の命を証明して下さった”のです。
私共は”正しく、きちんと神の名を呼ぶ”のです…”主イエスの十字架の救いを感謝し、その主イエスの愛への応答として、主イエスを主人として、私の支配者として呼ぶ”のです。
”主の言葉を重んじ、祈りを重んじ、礼拝を重んじて生きて行く”のです…この事こそが、神様が”第三の戒め”で、私共に求めておられる事ではないでしょうか?
神は、私共がその様に”神の名を呼び求める”事を心から喜ばれるのです。
ルカ1:50に「その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます」とある様に、主イエスは、恋人からの手紙や電話を心待ちする様に、”私共の…主として呼び求める祈り”を”待ち望んでおられ、憐れみをもって応えて下さる”のです。
私共は、主イエスを主として重んじ、愛と喜びをもって御名を呼ぶのです。イエス様が神を「アバ父よ(お父ちゃん)」と呼んだ様に、心からの信頼をもって、神を父と呼ぶのです。その様な者を、父なる神は罰するのではなく、喜びをもって受け入れて下さるのです。