<イ−スタ−>顧みられる復活の主
出エジプト13:19 ヨハネ20:1〜18、 2001.4/15
出エジプト13:19
モーセはヨセフの骨を携えていた。ヨセフが、「神は必ずあなたたちを顧みられる。そのとき、わたしの骨をここから一緒に携えて上るように」と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである。
ヨハネ20:1〜18
20:1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
20:3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
20:5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。
20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
20:10 それから、この弟子たちは家に帰って行った。
20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
20:12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
20:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee
of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible
Society,Tokyo,1987,1988,1995
<イ−スタ−>顧みられる復活の主
*今朝は、イースター礼拝です。この朝はキリスト教会にとって、特別な喜びの日であります。何故ならば,キリストが十字架から3日目に甦られた日…永遠の絶望であり、人類の上に置かれた呪いである,死を打ち破られた日だからです。
”死は罪の結果”であると聖書は告げます…その”死が打ち破られた”と言う事は”十字架が確かに罪赦すもの”である事を証明し…またキリストが,その甦りの初穂となられた事は”私共も復活の恵みに預かる”事の立証となるからです。
今朝は、この甦られた御方が、永遠に生きておられる救い主として、私共に与えて下さる恵みを学んで参ります。
T、生きている救い
*今年のイースターは,主イエスの救いが単なる教えでなく,復活の主による”生きた救い”である事を学んで参ります…それは”常に私共を,顧みて,顧みて救う”と言う救いなのです。
主を信じ,従う者が,絶望や危機に陥った時”復活されて今生きておられる主は私共を顧みて下さる”のです。出エジプト13:19に「モーセはヨセフの骨を携えていた。ヨセフが、『神は必ずあなた達を顧みられる。その時、私の骨をここから一緒に携えて上る様に』と言ってイスラエルの子らに固く誓わせたからである」とございますが…此処の”必ず”との言葉は”ヘブル語では,繰り返す事に拠って現され”…つまり原文では「神が私達を、顧みて、顧みて、顧みぬくぞ!」と成っているのです…ヨセフが遺言で「神様は必ずイスラエルの民を顧み,顧み,顧みて,エジプトから救い出されるから,私をエジプトに葬らず,ミイラにして,その時,祖国に持ち帰ってくれ」と託したのです…そして,この遺言は,ヨセフが亡なってから400年後,神がイスラエルを顧みられた時に実現したのでした。
これ以後,この「神が私達を、顧みて、顧みて、顧みぬくぞ!」との言葉が、救いを現す言葉として使われているのです…そして”この恵みは,深い心の傷や,苦しみを負った者には,存在にかかわる拠り所となる”のです。
新約聖書に目を移して見ますと,主の復活の出来事の内に”生きて顧みて下さる”復活の恵みが記されている事が分かります。
マグダラのマリヤは,まだ朝の暗い内に,主イエスが葬られた墓に向かっておりました。十字架のショックと、愛する主が,もう側にはいない悲しみに打ちひしがれながら,しかも,ルカ書に拠りますと,主イエスの墓の入口に,大きな石がある事に絶望しながら…。しかし,墓に着くと,既に石は取りのけられていたのです。主御自身が,マリヤの絶望を取り除かれていたのです。
しかし,主の復活に,まだ気づかないマリヤは,墓を覗きましたが,そこに”愛する主の遺体は無かった”のです。マリヤは再び絶望と悲しみに支配され,ただ泣いたのです。主の遺体さえも奪い取られた喪失感の中,動く事も忘れて涙したのです。
しかし,マリヤは”主の,御目の前で涙していた”のです。甦られた主は,涙するマリヤに御声をかけられたのです。しかし”絶望に目を奪われていたマリヤは”主の御声を聞いても,姿を見ても気づかなかったのです…人事には思えません。
しかし,マリヤは名を呼んで頂いたのです。あの懐かしい,優しい主の御声で「マリヤよ」と呼んで頂き,自分の全ての絶望が,主の御目の前にあった事を悟ったのでした。 生きておられる復活の主は,マリヤを見て,顧みて顧みて下さっていたのです。
U、生きた救いに預かる信仰
*此処で,もう1つの事を学びます…私共が”甦りの主の顧みに預かる信仰”です!…それは”今、この出来事も主の御目の前で起きていると信じる信仰”なのです。
そうした信仰をヨセフの生涯から学んで参ります…幼いヨセフが兄達に妬まれて殺されかけ、その上,奴隷として売られ、そんな中でも主の御目の前に真実に生きたヨセフが,やがて主人から重んじられる様になったのですが,その主人の留守中,主人の奥さんから受けた不倫の誘惑を断った為、投獄されたりしながらも、やがて総理大臣に迄、引き揚げられた…この創世記39章には、4回も「主がヨセフと共においでになった」との御言が出て参ります…私共は、ヨセフの生涯に,神が共に居た事を認めます。
しかし,私共は”ヨセフが,どの様に神と共にいて,祝福に預かったのか”をも見なければなりません。やがて総理大臣になったヨセフの前に、奇しい神の摂理によって、あの兄弟達が来たのです…兄達は,目の前の総理大臣が、弟ヨセフである事を知った時,恐れたのです。当然であります。
しかし、この時ヨセフは「確かにあなた方は悪を企んだ。しかし神は良きに変わらせて下さった。私がエジプトに売られたのは、神がイスラエル民族を飢饉による絶滅から救う為、私の人生を神が導いたのだ!…だから私は,あなた方の子供達を養いましょう」と慰め、優しく語ったのです。
何故、こんなに優しい言葉を語れたのでしょうか?…それは”ヨセフが,何時も,神の御目の前を歩み続けていたから”でした。”どんな苦しみの中でも、この出来事も神の御目の前で起きている”と捉え続けていたからでした…それ故,ヨセフの心の最も大きな傷にも,主の御計画を悟り得たのでした。
私共は,苦しみの中で「神様、ああして欲しかった。こうして欲しかった」を兜を脱ぎ捨ててひれ伏し,主の顧みを祈り求める時,こうした導きを知るのです。
”聖め”の恵みを私共は求めます…この恵みは”あの罪から解放された・憎しみが無くなった”…と言う事もそうですし大切な事ですが、もっと本質的な事がございます…それは”神の臨在を何時も実感出来る恵み”なのです。
ガラテヤ2:20「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」…とございます。私共の内に生きて下さる主イエスは、私共を顧みて、顧みて下さり、名を呼んで下さる御方なのです…その恵みを味わいつつ歩んでいく事こそが聖められた生涯なのです。
苦しみ,弱さの中,力尽きる様な中で,顧みて,顧みて,名を呼んで下さる御方を味わう…人は,そこで真の愛を知り,その御方に委ねずにおれなくなるのです。
復活された生ける主が、私のもとに来て下さり,顧みていて下さる。今、この事も、この御方の御目の前で起きている…その信仰に生きる事こそが聖めの本質なのです。この愛の神の臨在の前に生きる時!ここから、聖めの実である、愛に生きる力も罪に打ち勝つ力も生まれて参ります。
「こうなったのは,あの人のせい。あれのせい,これのせい」と言う人生は、それで終わってしまう人生なのです…私達が修練しなければならない事は”何かあった時,意識的に,ぱっと周りを断ち切って「ああ、主よ!」と、我に帰り、この事は,復活され、今、私を顧みて,顧みて,顧みて下さる御方の御目の前で起きているんだ…と主の臨在に立ち帰る事”なのです。
*イ−スタ−のこの朝、私共は”私共を顧みて救って下さる為、死を打ち破って下さった御方の前に,今,歩んでいる事”を、その”復活の主の御目の前に、全ての出来事が起きている事”を信じ、共に主の導きと救いの恵みに預かって参りましょう。