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    <title>God's great mercy</title>
    <link>http://www.jhcs2.org/blog/saeki/</link>
    <description>青年宣教主事ＩＴ担当の佐伯真のブログです</description>
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      <title>God's great mercy</title>
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    <item>
 <title><![CDATA[<b>ピリポの伝道</b>]]></title>
 <link>http://www.jhcs2.org/blog/saeki/index.php?itemid=100</link>
<description><![CDATA[<b>◎聖書箇所…使徒行伝8：26～40</b><br />
　ステパノの殉教で散らされて行ったクリスチャンたちにより、各地に福音が伝えられてました。使徒行伝1章8節でイエス様が約束されたように、聖霊の力によって、エルサレムからユダヤとサマリヤの全土へと福音が伝えられました。サマリヤでは、多くの人々が救われて、エルサレム教会からペテロとヨハネが遣わされるほどでした。ペテロとヨハネは洗礼を受けていながら聖霊を受けていなかったサマリヤの人々に按手をして聖霊が授かるように導きをいたしました。聖霊の働きは、サマリヤに留まらず、更に地の果てに向かう福音宣教の業を見せて下さいました。今日はそのために用いられたピリポの宣教の働きをみて行きくましょう。<br />
<b>Ⅰ．御霊の導きに従ったピリポ　</b><br />
　サマリヤでのピリポの働きは素晴らしい成果を収めました。ピリポもサマリヤに留まって、ピリポの教会形勢のために働きたいと願ったに違いありません。しかし、神様はピリポをサマリヤに留めようとはなされず、立ち上がって、ガザへ行けと命じられました。ガザはかつては栄えた町でありましたが、度重なる諸国の侵略により栄枯盛衰を繰り返し、ローマの時代には町が移転して、古いガザの町は注釈のとおり荒れ果ててしまいました。神様は何の目的でこの荒れ果てたガザにピリポを遣わされるのでしょうか。立ち上がって、御霊の導きに従ったピリポにすぐさまその目的が明らかにされます。ガザへ行く途中でピリポはエチオピヤ人と出会いました。<br />
<b>Ⅱ．み言葉を解き明かすピリポ</b>　<br />
　この馬車で旅するエチオピア人は、エチオピアの女王カンダケの高官で女王の財宝を管理する宦官でした。宦官はユダヤ教の改宗者のようで、エルサレムで礼拝を下帰りの道のりであったようです。御霊に導かれてピリポが馬車に駆け寄るとイザヤ書53章を読む声が聞えました。揺れる馬車の上ですから、諳（そら）んじていたのかも知れません。それこそ、御霊の導きは最善でとても良いタイミングにピリポを遣われました。<br />
　ピリポは宦官に、<b>「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」</b>と声をかけ、わからないと答える宦官に聖書の手ほどきを申し出ました。ピリポは口を開いて、この聖句から説き起こして、苦難を受け、よみがえられた主イエス･キリストの福音を、余す所なく宦官に伝えました。イザヤ書53章は苦難のメシヤであるイエス様の事が預言されている箇所でしたから、御言もまた最善の箇所がすでに開かれていました。<br />
　<b>「だれのことを言っているのですか」（34）</b>という宦官の問いに、ピリポは<b>「この聖句から説き起こして、イエスのことを宣べ伝え」（35）</b>ました。伝える事柄は自分自身のことでなく、救い主イエス様の事です。<br />
<b>Ⅲ．バプテスマを授けるピリポ　</b><br />
　ピリポの教えに耳を傾けた宦官は、悔い改めてバプテスマにあずかる決心が与えられました。水のある所に来た時に、<b> 「ここに水があります。私がバプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか」（36）</b>と問いました。ピリポは、<b> 「あなたがまごころから信じるなら、受けてさしつかえはありません」（37）</b>と言うと、宦官は<b> 「私はイエス･キリスト神の子と信じます」（38）</b>と答えました。<br />
　洗礼の条件は、求道のキャリヤでも、学びの出来不出来でもありません。ただ、イエス様を救い主と信じる事なのです。<br />
<b> 「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」（ローマ10：9）。</b><br />
　しかも、彼は異邦人でしたし、宦官と呼ばれる去勢された人です。旧約聖書では、異邦人はもとより、会衆にも加われない存在として扱われていました（申命記23：1）。しかし、救いはすべての人に開かれていることを神様はこの出来事をもって示されました。<br />
　そして、私たちが真の神様のもとに導かれたのは、神様に従って福音を伝えてくれた人々がいたからです。私たちもピリポのように、聖霊なる神様の導きに従って、その人々に、すべての人の罪のために十字架につけられ、死んで甦ってくださった、救い主であるイエス様のことをお伝えしていきましょう。]]></description>
 <category>信仰・教会</category>
<comments>http://www.jhcs2.org/blog/saeki/index.php?itemid=100</comments>
 <pubDate>Mon, 17 Nov 2008 08:07:05 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[<b>お金で得られない聖霊の賜物</b>]]></title>
 <link>http://www.jhcs2.org/blog/saeki/index.php?itemid=99</link>
<description><![CDATA[<b>◎聖書箇所…使徒行伝8：1～8</b><br />
　金銭にかかわる問題は昔から後を絶ちません。世界経済も陰りを見せている今日、すべては金次第という一時代は終わろうとしています。すべての物はお金で買えると豪語したバブリーな人々も今は陰を潜めています。本日は、お金では買えない神様の賜物について学びたいと思います。<br />
<b>１．魔術師の驚き</b><br />
　エルサレムで起こった大迫害で散らされたクリスチャンによる伝道が各知で起こりました。信徒伝道者として選ばれていたピリポはサマリヤの町で大きな宣教の成果を上げていました。御言に伴うしるしと奇跡が起こされ、悪霊憑きや中風の者、足の利かない者が癒され、町中に歓喜の声がこだましていました。<br />
　そのサマリヤで救われた一人の人が名前を挙げてかたられています。特筆されるからにはそれなりの理由があったに違いありません。彼の名はシモンで魔術師でした。それまで魔術を通して人々を驚かして、自分を偉い者かのように振る舞っていたようです。「大能」の神の力と呼ばれる事を喜んでいたようです。<br />
　しかし、ピリポの神の国とイエス･キリストの名についての宣教により、魔術師だったシモンも信じてバプテスマを受けました。彼はピリポについて行きました。そして、ピリポの行っていた数々のしるしと奇跡に驚いていたようです。彼は不思議の世界の専門家で、種の有る無しを見定めることができたでしょう。しかし、ピリポの行ったしるしと奇跡に種を見いだすことができなかったのです。今まで、人を驚かせていた人が驚いていたのですから、間違いありません。<br />
<b>２．救いに必要な聖霊</b><br />
　使徒ペテロとヨハネは、神の言葉を受け入れた人々が起こって評判になっていたサマリヤに遣わされました。ユダヤとにとっては汚れた土地であったサマリヤにペテロとヨハネが遣わされたということは、エルサレム教会にとってサマリヤがどれほど大切であったかがわかります。<br />
　しかし、何かが足りませんでした。それは、聖霊が下っていなかったということです。キリスト教を知り、神の言葉である聖書の言葉に目が開かれて、水のバプテスマを受けるだけでは不十分でした。<b> 「だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない」（ヨハネ3：5）</b>とイエス様は言われました。また、復活のイエス様は、弟子たちに息を吹きかけられて仰いました<b>「聖霊を受けよ」（ヨハネ20：22）</b>と。救いには聖霊を受けることが必要です。二人が按手をするとサマリヤの人々は聖霊を受けることができました。<br />
<b>３．お金では得られない聖霊の賜物</b><br />
　それを見ていた魔術師シモンは、お金を差し出して、聖霊を授ける力を求めました。彼は聖霊を受ける前に、聖霊を授けることを求めていましたし、その動機は不純でした。<br />
　魔術とは、ペルシャの祭司からの始まったと言われ、後にマジックと言われているように、常識では理解し難い現象を見せて、人々を驚かしている人でした。しかし、この類は、人を楽しませる事を目的とする手品師とは異なり、現代のカルト的な宗教指導者やいかがわしい霊能師に見られるような、人の気持ちを手玉に取り支配するような働きだったのでしょう。この種の働きを聖書は禁じています（レビ19：26，申18：9～14，Ⅱ列17：17）。<br />
<b>　「神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか。おまえの心が神の前に正しくないから、おまえは、とうてい、この事にあずかることはできない」（20～21）。</b><br />
　神様の賜物にあずかる事ができる人とできない人の違いはどこにあるのでしょうか。その賜物を受けることの障害は<b>「神の御前に正しくない」「悪事」、「思い」「苦い胆汁」「不義のなわ目」</b>と言っています。すなわち、罪の問題なのです。賜物を求める事自体は問題はありません。しかし、その動機が問われるのです。そして、その動機が罪と直結している限り、賜物にあずかることが出来ないのです。<br />
　それではどうすれば良いのでしょうか。まずは悔い改めることです。<br />
<b>「だから、この悪事を悔いて、主に祈れ。そうすればあるいはそんな思いを心にいだいたことが、ゆるされるかも知れない」（22）。</b><br />
　私たちが奉仕をするにも、献身をするにも動機が問われます。その動機が不純であるならば神様は聖霊の賜物を私たちに授けられることはありません。まずは信仰が清められ、動機が清められるように、悔い改めて主に祈りましょう。]]></description>
 <category>信仰・教会</category>
<comments>http://www.jhcs2.org/blog/saeki/index.php?itemid=99</comments>
 <pubDate>Mon, 17 Nov 2008 08:03:51 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[<b> ピンチをチャンスに</b>]]></title>
 <link>http://www.jhcs2.org/blog/saeki/index.php?itemid=98</link>
<description><![CDATA[<b>◎聖書箇所…使徒行伝8：1～8</b><br />
<br />
　復活のイエス様は、昇天される前に弟子たちに向かって<b>　「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」（マルコ16:15）</b>と宣教命令を与えられました。その後、<b>　「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」（使徒1：8）</b>と聖霊降臨（ペンテコステ）と共にエルサレムから近隣地域を経て、地の果てまで福音は伝えられました。この福音は、今や全世界の隅々まで宣べ伝えられ、今日も多くの国や地域で福音宣教の業が展開されています。本日は、世界宣教のきっかけとなった出来事から、私たちの宣教についても考えてみましょう。<br />
<br />
<b>１．教会のピンチ</b><br />
<br />
　前回は、キリスト教会初の殉教者ステパノの死について学びました。そして、ステパノの殉教の死を契機として、初代教会に対する大迫害が起こりました。ですから、サウロ（のちのパウロ）はステパノを殺す場に立会い、彼を殺すことに賛同したのです。サウロは強情にも狂った者のように、クリスチャンたちを迫害していったのです。「サウロは家々に押し入って、男女を引きずり出し、次々獄に渡して、教会を荒らし回った」（3）と、サウロの迫害は、異常なまでの行動となりました。<br />
　なぜなら、ユダヤ人にとって十字架に付けられ殺されたイエス様は神様に呪われるべき者であるはずで、そのイエス様を、神様が主とし、墓から甦らせたと宣べ伝えるクリスチャンは許しがたい連中だとサウロは考えたからです。こうしてエルサレム教会への最初の迫害が始まったのです。議会とユダヤ人社会の憤激は、ステパノ殺害にとどまらず、エルサレム教会への全面的な敵対と大迫害を生むことになりました。<br />
　誕生したばかりの教会にとっては、この迫害は大ピンチです。下手をするとクリスチャンは根こそぎ抹殺されてしまうかもしれません。それは、かつてのナチスドイツによるユダヤ人への大迫害やキリシタン弾圧のようにこの世の中から、抵抗勢力を抹消しようとする怒りと憎しみに満ちた蛮行でした。<br />
　使徒たちはエルサレムに残り、それ以外のクリスチャンは各地へと散らされて行きました。信仰深い者たちにとって、ステパノの殉教死は深い悲しみでしたし、結集していた力が分散されることは、望ましい事ではなかったように思われます。<br />
<br />
<b>２．宣教へのチャンス</b><br />
<br />
　しかし、教会のピンチは意気消沈や絶望で終わりませんでした。ユダヤとサマリヤの地方などに「散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いていた」（8：4）ということです。迫害から逃れて、逃げ隠れていたという事ではなく、ピンチの状況の中にもチャンスをうかがいながら、御言を宣べ伝え続けたのです。<br />
　その中でも、ピリポはサマリヤに下って行き、人々にキリストを宣べ伝えています。さらに、「御言に伴うしるし」（マルコ16：20）をもってイエス様が救い主であることの確かさを人々に伝えていました。その宣教の業は、サマリヤの町に「大変なよろこび」をもたらしました。<br />
<br />
　10月31日（金）私の祖母が101歳の高齢で昇天いたしました。仏教用語では「大往生」と言いますが、英語ではpeaceful deathといいますが、平和に満ちた安らかな召天でした。私の一族では初穂であり、一族にとどまらず近隣の人々にも影響を与えた人でした。福音に接する機会はいくつかありましたが、一つは火事でありました。隣家からの延焼で焼け出されたのがきっかけで、教会にお世話になったこと。息子が教会に通うようになったこと。娘が国際結婚をして、アメリカのフロリダに嫁いだこと。語学の必要に迫られて、YWCAで英語を学んだこと。フロリダ在住の娘が出会ったご婦人バッキンガム女史との50年にわたる手紙のやりとり、そこに書かれていた聖書の言葉から福音に接することになりました。福音に接した時は、良いときばかりとはいえませんでした。ある時はピンチの時であり、悩める否定的消極的な時でありました。しかし、福音を伝えてくれた宣教師もクリスチャンたちも、手紙の端々や日常の中のチャンスを生かして用いる人たちでした。また、祖母の信仰は決してほめられるような信仰ではありませんでしたが、機会があるごとに人を教会に連れて行き、キリスト教を紹介していました。近隣でも何人かの方々が教会に導かれていますし、わたし自身も祖母に連れられて日曜学校に行ったのが救いのきっかけとなりました。それはちょうど、イエス様の元へ、兄弟シモン･ペテロをお連れしたアンデレのようであり、目立たない働きではありましたが、ピンチをチャンスに変える神様の働きの一端で会ったに違いありません。<br />
 　一昨年、<b>Power for Living</b>というブルーの表紙の雑誌が出版され、全国の教会で配布されました。テレビCMでも放映され話題を呼び、隠れたベストセラーにもなりました。実はこの書物の骨子は、祖母が文通をしていたご婦人バッキンガム女史の息子ジェイミー・バッキンガムが著した書物でした。何という不思議な神様のご摂理でしょうか。祖母の葬儀では、この雑誌が配布されて、祖母の在籍した教会とお世話になった日本基督教団愛知教会。そして、私の在籍する日本ホーリネス教団や近隣教会の牧師や信徒も多数集まって下さり、さながら伝道集会の様な葬儀になりました。祖母の死は私にとっても人生のピンチでありましたが、祖母の生きたクリスチャンとしての歩みを証しし、福音を伝える絶好のチャンスとなりました。<br />
　あなたにも福音宣教のチャンスが与えられていることに気づいておられるでしょうか。ピンチと思われる状況をも神様は用いてくださるお方です。<br />
<br />
<b>「今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい」（エペソ5：16～17）<br />
「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい」（Ⅱテモテ4：2）。</b>]]></description>
 <category>信仰・教会</category>
<comments>http://www.jhcs2.org/blog/saeki/index.php?itemid=98</comments>
 <pubDate>Thu, 6 Nov 2008 07:10:19 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[天を仰いで]]></title>
 <link>http://www.jhcs2.org/blog/saeki/index.php?itemid=97</link>
<description><![CDATA[<b>◎聖書箇所…使徒行伝７：54～60</b><br />
　議会でのステパノの証言は、アブラハム、ヨセフ、モーセの三人の人物についてでした。この父祖たちによって、イスラエル民族は神様の大きな祝福をいただきました。しかし、彼らは神様に真実ではありませんでした。40年の荒野の旅路で何度も、モーセに背き、神様に対して不信仰な行動をとりました。そして、50節以降でイスラエルの人々はその先祖と同じ様に、聖霊に逆って神の子イエス様を十字架につけて殺してしまったのだとステパノは非常に厳しい指摘をいたしました。だから、それを聞いた人々は<b>「心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした」</b>のは当然のことであったと思います。<br />
　議会の議員たちは、正式な判決を待たずに、激しい怒りに燃えてステパノ目がけて殺到し、彼に石打にしました。彼らは怒りに打ち震えながら、ステパノの語る真理に耳をふさぎ、天の使いのように輝く彼の顔に目をとじて、罪の上に罪を重ねる行動に走ったのです。そして、ステパノは初代教会初めての殉教者となったのです。本日は殉教者ステパノの姿を通してステパノの信仰姿勢を学びましょう。<br />
<br />
<b>１．天を見つめたステパノ</b><br />
<br />
　激しい怒りを買い、怒りの矛先がステパノに向かおうとしていた時にもかかわらず、ステパノは彼らを見つめないで、天を見つめていました。人の非難を浴びたり、怒りが向かってくる時、その恐怖心や不安から、私たちはどうしてもその問題や人に対して目が向かいがちです。<br />
<br />
　日曜学校で開かれているヤコブ物語のヤコブは人を恐れて、天を見上げることができませんでした。ヤコブは自業自得ではありましたが、兄エサウの反感を買い、追われる身となりました。叔父ラバンの地でも、20年間仕えてその地を去る時も、多くの財産や家族を手にしたのですが、がめつい叔父に奪い取られるのを恐れて、逃げる去るようにして、その地を去りました。兄エサウとの再会も仕返しを恐れて、一族の最後尾で恐れおののいていました。ヤコブの人生は実に人に対する恐れに捕らわれていた人生でした。<br />
　<br />
　イエス様は、<b>　「からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな」（ルカ12:4）</b>と仰いました。また箴言には<b>「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである」（箴言29：25）と書かれています。</b><br />
<br />
　<b>「見つめる」</b>とは、 <b>「目を注ぐ, じっと見つめる, 凝視すること」</b>です。ただ、見つめていただけではないのです。その眼差しには期待がありました。ステパノは、迫り来る危機的な状況の中も、<b> 「聖霊に満たされて」（55）、</b>神様に期待を寄せて天を見つめていたのです。ステパノは聖霊に満されていなかったならば、天を見上げることはできなかっただろうと思います。まずは聖霊に満たされている人は、人ではなく、神様により頼むのではないでしょうか。<br />
<br />
<b>２．目が開かれたステパノ</b><br />
<br />
　ステパノが聖霊に満たされて、天を仰いでいますと、天が開けて、栄光の神の右手に主イエス様が立っておいでになるのが見えて来ました。そして、<b> 「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」（56）</b>と言いました。聖霊に満たされて神様の助けに期待して天を見上げるとイエス様が見えてくるのです。<br />
<br />
　迫害の手が押し迫る状況下に、神様はステパノを一人だけにしませんでした。昇天されたイエス様は、御父の御座の右におすわりになったのですが、そのイエス様がステパノの受難をじっと見守りつつ、立ち上がっておられるのを見ることができました。ステパノにとってそれはどれだけ、勇気づけられたことでしょうか。私たちも苦難の中を通過する時、主は私たちを励ますために立ち上がって応援して下さっています。<br />
<br />
　このすばらしい光景を見たステパノは町外れまで引きずられて行き、ました。そして、怒り狂う人々はステパノめがけて石を投げつけました。後から後から投げつけられる石で傷つき倒れ伏して行く光景は何とも無残です。しかし、ステパノ自身は実に静粛さを保ち、不思議なほどの安らぎで満たされています。そして、彼は祈るのです。<br />
<br />
　<b>「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい。主よ、どうかこの罪を彼らに負わせないで下さい」。</b>こう言って彼は眠りにつきました。既にお気づきでしょうが、この言葉は、イエス様が十字架上で叫ばれた言葉と同じです。<br />
<br />
　苦難の中で神様により頼む者はイエス様を見ることでできます。そして、イエス様のように生きる事が出来るのです。<br />
<br />
　1629年1月12日、雪に覆われた米沢の北山原でキリシタンが処刑されました。刑場までの道のりを喜びのうちに祈りと賛美を捧げながら引かれていく武家信者の姿に感動した群衆の中から、武家に仕えていた者や知行地の農民、1歳の幼児から老夫婦までが名乗り出て、53名の処刑がなされたそうです。刑場に引かれていく人々もステパノのように天使の顔のように輝いていたと語り継がれているそうです。<br />
　<br />
　犬死にのように見えるステパノの殉教死も、その殉教の姿を見つめる一青年サウロがおりました。彼はキリスト教の大迫害者でしたが、ダマスコ途上で復活のイエス様と出会い、目が開かれて、大宣教者パウロでした。ステパノの死はパウロにも大きな影響を与えたことと思います。<br />
<br />
　苦難の中でも、天を見上げるならば、霊の目が開かれイエス様がわかるようになるでしょう。そして、私たちもイエス様のようにさせていただきましょう。<br />
]]></description>
 <category>信仰・教会</category>
<comments>http://www.jhcs2.org/blog/saeki/index.php?itemid=97</comments>
 <pubDate>Sun, 26 Oct 2008 21:03:00 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[捨てられた人によって]]></title>
 <link>http://www.jhcs2.org/blog/saeki/index.php?itemid=96</link>
<description><![CDATA[<b>◎聖書箇所…使徒行伝７：9～16</b><br />
　リベルテンの人々によって訴えられたステパノは、議会に立ち弁明が続けられています。第一に、信仰の父となったアブラハムの生涯。第二に兄弟から捨てられた苦境の生涯を味わい筒も神様が共におられて祝福されたヨセフ。そして、本日は奴隷としてエジプトに増え広がったイスラエルの民の解放者となったモーセについて語っています。ステパノはモーセ生涯を語りながら、何を伝えようとしているのでしょうか。<br />
<b>１．荒野に身を寄せるモーセ</b><br />
　神様がアブラハムに語った約束は、エジプトの地で実現いたしました。イスラエルの民は「エジプト全土にひろが」（17）り、エジプトの国を脅かすほどの勢いを増していきました。エジプト王は、イスラエルの民を虐待し、重い労役を課しました。また、生まれてくる幼子が男の子ならナイル川に捨てるように強要しました。<br />
　その中で生まれたのが、モーセでした。両親は王の命令をも恐れず、三か月間は親元で育てられるも、隠しきれなくなり、ついにはナイル川に「捨てられ」る（21）ことになりました。捨てられると言っても、必要なくなって捨てられるのではありません。この言葉には、「見える所に置く」という意味があります。親の愛情を一心に受けながらも、できることなら助かってほしいという期待をもって、パロの娘の水浴をする水辺近くの葦の茂みに、パピルスのかごを船にして幼子を置きました。そして、神様の御摂理の内にパロの娘に拾い上げられることになり、モーセは王家の子として育てられることになるのです。<br />
　40歳になった時、虐待される同胞イスラエル人をかばい、エジプト人を殺害してしまいました。同胞イスラエル人に理解を得られるものと期待をするもかえって反感を買うことになってしまいました。エジプト人殺害の事もパロに知れることになり、モーセはエジプトから追われる身となってしまいました。そして、ミデアンの地で身を寄せることになります。「身を寄せる」という言葉は「自分の国でない外国への一時的に身を寄せる寄留者」を意味する言葉です。<br />
　「捨てられ」「追われて」異邦人のように身を寄せるモーセの姿は、私たちの姿でもあります。本来いるべき場所ではないと感じながらも、身を寄せなければならない事情の中で、モーセは40年間も羊を追いながら、荒野の生活をいたしました。モーセはこのミデアンの荒野で、エジプトの王家で養われた高ぶりも思い上がりも、すべては打ち砕かれたのでした。<br />
「あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。」（Ⅰペテロ2：11）。<br />
<b>２．荒野で使命が与えられるモーセ</b><br />
　神様はシナイ山の荒野にて、燃える柴の炎の中でモーセに現れました。<br />
 「わたしは、あなたの先祖たちの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である」（使徒7：32）と祝福の継承がモーセに受け継がれたことを知らされました。それは畏敬に満ちた神様との出会いでした。<br />
　「あなたの足から、くつを脱ぎなさい。あなたの立っているこの場所は、聖なる地である」（33）とも同時に言われました。靴を脱ぐことには、意味があります。それは権利の譲渡や剥奪であり、祝福の継承のためには、これまでのモーセの自己主張や高ぶりのすべてを脱ぎ捨てる必要がありました。聖なる主の前に立つ時、私たちは自らを聖別する必要があります。<br />
　神様の御前にひれ伏すモーセに対して、神様はモーセをエジプトに遣わすという使命を与えられました。神様はエジプトの地で虐待されているご自身の民を見過ごしにされているわけではありませんでした。彼らを救い出すために、荒野においてモーセを備えられ、彼らを救い出すためにモーセを召されたのでした。<br />
　私たちも荒野に身を寄せることがあったとしても、それは神様が備えた時であり、時至って主は私たちを新たなる使命に遣わされます。この世のうめき悩みに私たちを遣わそうとされているのではないでしょうか。<br />
<b>３．荒野に遣わされるモーセ</b><br />
　パロに追われ、同胞からも排斥されたモーセはエジプトに支配者、解放者として遣わされました。エジプトの地では心かたくなにするパロの前で、行く手を遮る紅海でも、荒野においても、しるしと奇跡が行われました。また、シナイ山では、「生ける神の御言葉」（38）を授かり、イスラエルの民に伝えました。<br />
　ステパノは、どうしてここでモーセのことを語ったのでしょうか。それは、ユダヤ人にとって、モーセはイスラエルの民をエジプトから導き出した指導者であり，預言者であり，律法授与者だからです。ステパノはこのモーセの生涯を顧みながら、ステパノ自身もモーセのように神様から遣わされた自覚を持って生ける御言葉を語っているのです。<br />
　ステパノの語る言葉聴く人々の大半は、ステパノに対する怒りに燃えて、神様を見失っていました。それは、かつてのイスラエルの人々とよく似ていました。<br />
　「先祖たちは彼に従おうとはせず、かえって彼を退け、心の中でエジプトにあこがれて」（39）、偶像崇拝に興じてしまいました。どんな都会生活であろうと、神様を見失った心は荒野同然です。<br />
　そして、さらには、モーセとイエス様との間に顕著な類似点を見いだしていたのではないでしょうか。イエス様は、すべての人の救いのために、この世に遣わされ、神の国の福音を伝えました。しかし、人々はそれを受け入れず、十字架の死に追いやってしまいました。捨てられたモーセとイエス様、同胞からも裏切られたモーセとイエス様でした。<br />
　ペテロの手紙ではこのように言っています。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない。…不信仰な人々には『家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの』、また『つまずきの石、妨げの岩』である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないから…」（Ⅰペテロ2：6～8）。<br />
　私たちも荒野のようなこの世にあり、捨てられたような存在であるかも知れません。しかし、捨てられて隅の頭石となられたイエス様により頼んで、御言に従っていくならば、たとえ捨てられたような人生であっても、その人生は失望に終わることがありません。神様があなたに抱いている計画は、「将来を与え、希望を与えようとするもの」（エレミヤ29:11）であり、神様はあなたをも用いようとなさっています。荒野にて、神様からの召しをいただき、モーセやステパノのように救いを必要としている荒野のいる人々のところに遣わされていきましょう。]]></description>
 <category>信仰・教会</category>
<comments>http://www.jhcs2.org/blog/saeki/index.php?itemid=96</comments>
 <pubDate>Wed, 22 Oct 2008 07:47:08 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[苦難の中にも共なる神]]></title>
 <link>http://www.jhcs2.org/blog/saeki/index.php?itemid=95</link>
<description><![CDATA[◎聖書箇所…使徒行伝７：9～16<br />
　皆さんは、旧約聖書の創世記37章から50章に描かれているヨセフ物語を知っていますか。文学的にも優れた内容で、ディズニー映画でも取り上げられています。今回の聖書箇所は、ステパノが捕らわれ議会の席上での弁明説教の中で語られた、ヨセフ物語の要約です。ヨセフは、多くの苦難の末に、エジプトの宰相になるほどの立身出世をたしました。しかし、単なる出世物語に終わることなく、憎しみを超えた兄弟愛と壮大なイスラエル民族誕生の由来を描いています。題して、゜苦難の中にも共なる神」と題して、御言をお取り次ぎいたします。<br />
１．身から出た苦難<br />
　ヨセフは、腹違いの兄弟たちに捨てられて、ミデヤン人の隊商に売られて、エジプトに奴隷として売られていきます。<br />
身内に捨てられて行くと言うことはどんなに悲しくさびしいことでしょうか。どんな組織でも、「あなたはいらない」「必要ない」など言われたら、とても傷つきます。<br />
　しかし、ヨセフが捨てられたのにはそれなりのの理由がありました。父ヤコブに溺愛されて育ったヨセフは、長袖の着物を着せられて特別扱いで育てられました。甘えの中で育ったヨセフは、他の兄弟たちを蔑むような人の気持ちを察することのできないような人間に育っていきました。得意の夢解きも自分を中心とした解釈を兄弟達の気持ちを察することなくずけずけと語ってしまうのもそのためでしょう。<br />
　父ヤコブもまた、母リベカの偏愛受けて育ったために、ベテルの経験と自我性が砕かれるペニエルの経験が必要でした。子は親に似るものです。子供は親のように育っていきます。罪人の子はやっぱり罪人なのです。ヤコブがエサウから追われる身となるのも当然であったように、ヨセフも腹違いの兄たちから、捨てられることになってしまいました。<br />
　私たちも自分を見る時に、やはり救われがたい罪人であることに気づかされます。人との関係の中で、会話の端々で、自我性が顔を出すことがあり、問題が表面化することがあります。「身から出た錆」という言葉がありますが、自分の犯した罪のために、苦しむことしばしばです。神様を信じるまでは、何も気にならなかった罪の問題も、神様の事を知れば知るほど、露わにされ、滅びても仕方のない私自身に気づかされます。私たちもヨセフのように持って生まれた罪性のために、捨てられても仕方がない存在でした。<br />
２．苦難の中にも共なる神<br />
　ヨセフはミデヤン人の隊商に拾われ、エジプトのポテパルに売られ奴隷生活を始める事になりました。しかしそこで、一生懸命に働いたヨセフは認められ、奴隷の身分ありながらもポテパルの家の差配を委ねられるまでになりました。ところがここでまた問題が起こります。ポテパルの妻の誘惑です。浮気をそそのかした誘惑に、ヨセフは徹底して拒絶いたしました。ヨセフは苦難の中にも神様が共におられたがために、誘惑に打ち勝つことができたのです。誘惑に打ち勝つための秘訣は神様が共におられることです。私たちがどんな弱くても、神様が共におられるならば私たちは罪に陥ることはありません。<br />
　誘惑に打ち勝ったヨセフでしだが、ポテパルの妻から反逆が始まります。あらぬ讒言（ざんげん）を立てられ、汚名を着せられて、獄屋に何年も捕われることになりました。「しかし、神は彼と共にいまして、あらゆる苦難から彼を救い出」（9～10）されました。<br />
　ヨセフは獄中にありながらも神様から与えられた賜物をもって夢を解き、やがては王の耳に入ったのをきっかけに、王の見た不可解な夢を解くことになりました。それは、エジプトの危機に関する予告でした。7年の豊作の後に来る7年の飢饉の予告の夢解きは、エジプトを飢饉から救うことになりました。また、飢饉のために苦しんでいた父ヤコブと一族を飢餓から救い、エジプトの地で住まわせることになります。<br />
　こうして、エジプトの地はイスラエル民族の苗床となり、この地において増え広がり、イスラエル民族が形作られることになりました。苦難の中に共におられた主のご計画は、ヨセフを通してイスラエルを祝福することにありました。<br />
「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」（ヘブル12：11）のです。<br />
３．苦難の末の祝福<br />
　兄弟との再開を果たしたヨセフは、自分を明かすことなく、兄弟たちを赦さないつもりでいました。しかし、その全てが神の計画である事に気付いた時、彼は自分を憎み捨てた兄弟たちを赦したのです。そのクライマックスは涙の連続でした。神様の祝福を受け継ぐ者は、許すことが必要です。<br />
　このヨセフの姿に、キリストの十字架を思い起こします。イエス様も、自分の身内同然であった使徒ユダに裏切られ、ねたみからユダヤ教指導者たちによって十字架につけられて殺されました。しかし、この十字架は神の計画であり、それゆえにイエスはその十字架の罪を、即ち神を神としない罪から全ての人々を赦されたのです。<br />
「互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい」（エペソ4:32 ）<br />
　本日の箇所は、ステパノの語ったヨセフ物語であることを忘れてはなりません。ステパノが今まさに受けている苦難の中で、ステパノは苦難の中にも共におられる神様のご臨在を感じていたことでしょう。ヨセフが捨てられて、エジプトに売られていったように、教会も迫害を受けながらも神の導きによってエルサレムから、そしてユダヤとサマリアの全土から散らされようとしていますが、それが苦難のままでは終わらない事を知っていました。<br />
　私たちの生活の中にも、そして教会の中にもたくさんの苦難があります。しかし、その苦難の中にあっても主が共にいて下さると、語りかけて下さっています。たとえ私たちを迫害する者があり、私たちを苦しめる者がいたとしても、その中にも主が共にいて、私たちを祝福へと誘って下さいます。ヨセフやイスラエルの受けた祝福を信じて、私たちも苦難の中にある主を見上げてまいりましょう。]]></description>
 <category>信仰・教会</category>
<comments>http://www.jhcs2.org/blog/saeki/index.php?itemid=95</comments>
 <pubDate>Mon, 13 Oct 2008 10:29:59 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[そろそろ書き出します]]></title>
 <link>http://www.jhcs2.org/blog/saeki/index.php?itemid=94</link>
<description><![CDATA[　長いお休みをいただいてしまいました。私の働きは、青年宣教におけるインターネツトを通しての伝道ということもあって、裏方ながら色々と忙しさが続きます。昨年の末から、特にマルチメデイアを用いた宣教についての働きを進めてきました。インターネットの動画配信やビデオ編集など、私の仕えている2教会の牧会伝道の合間の時間を当てて奉仕をしています。ネットやビデオの働きは、福音を伝えるためには有効で、いろいろな方面からその効果を聞かされます。ビデオだけでも、この半年間にDVDでも何百枚も制作することができました。四国教区の聖会ビデオ、Youth Jamのプロモーションビデオ、全四国クリスチャン修養会のビデオなど、その働きは、教団、教区、超教派に広がっています。<br />
<br />
　あまりの忙しさに、ついに4月には体調崩して、帯状疱疹を煩ってしまいました。お年寄りに多い病気だと言われいますが、若い人でも抵抗力が弱りますと、水疱瘡を経験した人に潜むと同じウィルスが弱さにつけ込んで活動を開始するというのが帯状疱疹です。寝返り打つこともできないような激痛が続き、放心状態で、あわや退場となりかけてしまいました(^^;)。<br />
<br />
　痛みの中で、神様からの休息命令と信じて、思い切って四月中は教会の行事以外は、しっかりと休みをとらせていただきました。おかげさまで、今は元気いっぱいで、これからの教区賛美大会と夏に東京代々木で開かれるYouth Jam 2008の裏方の働きのために力を蓄えることができました。力と言っても肉的な力と言うよりも、霊的な力と言うべきでしょうか。<br />
<br />
　どんなに忙しくても、やっぱりお祈りは大切です。お勉強やお遊び。パソコンやテレビも、お仕事や奉仕も必要ですが、それ以上に祈りが無くてはクリスチャン本来の力を発揮することはできません。その力は、神様からの力です。<br />
<br />
<b>使徒1:8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう</b><br />
<br />
　さあ、再び立ち上がります。そろそろ書き始めます。お休みの間も毎日のように、お越し下さった皆さんに感謝いたします。私は主にあって、元気ですよ！！]]></description>
 <category>信仰・教会</category>
<comments>http://www.jhcs2.org/blog/saeki/index.php?itemid=94</comments>
 <pubDate>Fri, 23 May 2008 18:47:59 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[<b>麗しきぶどう畑の実り</b>]]></title>
 <link>http://www.jhcs2.org/blog/saeki/index.php?itemid=93</link>
<description><![CDATA[<b>◎聖書箇所…イザヤ27：1～6</b><br />
　収穫の秋を迎えました。越知教会に向かう道中のぶどう畑もたわわの房を実らせています。収穫の秋を迎えました。神様はイスラエルの民を無ぶどう畑になぞらえて、麗しきぶどう畑と言っています。<br />
<br />
　決して麗しさがあるわけではありません。一度は失われた民を主は回復し、祝福してくださる回復された姿を麗しいと言ってくださっているのです。イザヤ書5章でもぶどう畑の歌がありました。そこでは、主が備えられたぶどう畑は、酸いぶどうをならせてしまいました。それで主はぶどう畑(イスラエル）をさばかれるという絶望的な歌でした。しかし、この27章では、主がユダのぶどう畑を祝福される歌です。<br />
　　<br />
　土曜日は、FEBCのアナウンサーの吉崎恵子さんが、伊野教会まで来られ、私たちの教会の取材と私と信徒の証しの収録をされました。過去を振り返りながら、神様のなされた恵の数々を振り返ることは、私にとっても大きな恵みとなりました。一度は、神様のもとを離れて失われていた私も、神様は拾い上げてくださり、麗しい神様の実り・祝福をいただいていることを改めて振り返ることが出来ました。<br />
　<br />
<b>１．和らぎの実り</b><br />
<br />
　さて、神様はそのような麗しい実りをどのようにして私たちに与えてくださるのでしょうか。それは、まず第一に「和らぎの実り」だと語ります。<br />
<br />
　神様はぶどう園の農夫のように（ヨハネ15:1）、ぶどう畑を守り、水を注ぎ、養われます。実りを妨げるいばらやおどろを踏みつぶされ、取り除かれます。<br />
　<br />
　預言の対象でありました南ユダ王国には、大国アッスリア、バビロン、ペルシャ、エジプトなどの大国や近隣諸国の脅威がありました。私たちに迫り来る、サタン、飲みつくすべきものを求める狡猾な蛇のようでした。神の民でありながら、真の神から離れ偶像崇拝の罪の中にあった北イスラエルはさばかかれました。神の民の実りの妨げは、神様との関係を断ち切ってしまう罪の問題です。<br />
　<br />
<b>27:5 それを望まないなら、わたしの保護にたよって、わたしと和らぎをなせ、わたしと和らぎをなせ」。<br />
27:6 後になれば、ヤコブは根をはり、イスラエルは芽を出して花咲き、その実を全世界に満たす。</b><br />
　<br />
　実を結ばない枝はすべて除かれ焼き捨てられますが、そのように望まないのなら、神様の保護にたより、神様と和らぎをなせと勧められます。<br />
　<br />
　この<b>「和らぎ」</b>という言葉は、26章にも出てきましたヘブル語で<b>シャローム</b>という言葉です。「平安」「平和」と訳されています。もともとは、内に満ち満ちている、充足されている状況を表します。「繁栄」「健康」「救い」「勝利」とも訳される言葉です。<br />
　主が苦しめられ、十字架につけられたことによって、私たちに神のシャロームが与えられたのです。(イザヤ53:4～6)　神との平和、シャロームこそが一番大切なのです。<br />
<br />
<b>エペソ2:14～16 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。</b>　<br />
<br />
　そして、和らぎとは神様との平和の回復のために、神様と和解をすることです。私と神様との間に隔てられている中垣が取り除かれて、一つの体のように神様と和解することです。<br />
<br />
　神様の保護のもとにあるその和らぎにより<b>、「…根をはり、…芽を出して花咲き、その実を全世界に満たす」（6）</b>とその祝福を約束されています。私たちも神様との和解により、真の平和である救いの祝福が与えられるのです。　<br />
<br />
<b>２．贖いの実り</b><br />
<br />
　さて、それではどのようにしてその和解が得られて神様と和解することができるのでしょうか。第二にそれは、贖いの実りということです。実を結ぶためには、罪が取り除かれ、その不義が贖われる必要があるのです。<br />
　<br />
<b>27:9 それゆえ、ヤコブの不義はこれによって、あがなわれる。これによって結ぶ実は彼の罪を除く。</b><br />
　<br />
　7～11節は、神の民へのさばきと荒廃について預言されています。さばきの目的は、民の贖いのためなのです。贖いには犠牲が伴います。また、主は民を「撃たれ」「殺され」「追放」されました。イエス様も、同じような苦しみに遭われて、十字架で死なれました。贖いには、そのような痛みが伴います。<br />
　<br />
　しかし、神様は「これによってあがなわれ」「これによって結ぶ実は罪を除く」（9）のです。主は、真の祝福をイスラエルに与えるために、イスラエルをさばかれるのです。そして、その贖いによって実を結ばれるのです。<br />
　<br />
　私たちも麗しい実を結ぶためには、イエス様の十字架による罪の贖いが必要です。私たちがまず、その罪を認め、罪を悔い改めることです。イエス様の十字架の血潮はどんな罪で贖いきよめます（Ⅰヨハネ1:7，9）。<br />
　<br />
　そして、主は、アッシリヤからエジプトまでの散らされている神の民を、ひとりひとりを<b>「拾い上げて」（12新改訳、共同訳）</b>くださいます。神さまは一人一人を大切にされるお方です。<br />
　<br />
　神様は農夫のように私たちを見守り、平和を与え、私たち一人一人を<b>「ひとりひとり拾い集め」（12）</b>てくださるのです。神様は私たちを見捨てられるお方ではありません。神様と和解し、罪赦され贖われた者は、　<b>「あなたがたを捨てて孤児とはしない」（ヨハネ14:18）</b>と約束されているばかりが、麗しいぶどう畑のように実のり豊かな祝福を与えてくださるのです。]]></description>
 <category>信仰・教会</category>
<comments>http://www.jhcs2.org/blog/saeki/index.php?itemid=93</comments>
 <pubDate>Mon, 1 Oct 2007 14:08:54 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[<b>後ろの戸を閉じて</b>]]></title>
 <link>http://www.jhcs2.org/blog/saeki/index.php?itemid=92</link>
<description><![CDATA[<b> ◎聖書箇所…イザヤ26：1～6<br />
<br />
１．義人の道は平ら（7～8）</b><br />
<br />
　人生を道にたとえられることが多くあります。その道を振り返ると時に、その道は時には険しく、曲がりくねったでこぼこ道だったりします。<br />
　イスラエル歴史も、イザヤの時代を見ても決して平坦ではありません。南北に大国に囲まれ、大国の相次ぐ侵略の中で、北は滅びやがて南も滅びていくような険しい道のりです。<br />
　神様の選びの民でありながら、どうしてこんなにも厳しい裁きの中を通過しなければならなかったのでしょうか。<br />
　それは、義なる神様のゆえです。神様はどんなに小さな悪をもお嫌いになる厳正なお方だからです。しかし、その厳しさのために、でこぼこの道を平らにされ、なめらかにされるのです。<br />
　それはまた、聖なる神様のゆえです。神様は聖俗混在されるお方ではありません。異教の俗なる物を無神経にも取り込んでしまった民をきよめるためでした。<br />
　そして、愛なる神様のためです。わがまま勝手な民を愛するがゆえに、神様はあえて訓練されました。<br />
<br />
<b>「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」（ヘブル12:6）。</b><br />
<br />
　曲がりくねったでこぼこ道を平らにするために、聖・愛・義なる神様は、ひとり子イエス様をも惜しまず与え、むち打たれ、救いの道を平らにされました。<br />
<br />
<b>２．悪しき者は正義を学ばず（10～11）</b><br />
<br />
　しかし、どんなに救いの道を示されても、どんなに恵まれた状況の中に置かれても、「正義を求めず」むしろ、不義を行い続けます。なぜならば、彼らは神様を認めず、神様に信頼を置こうとしないからです。<br />
　自分を中とした己を神とする高慢さのゆえに、神様に対する畏れはありません。恐い者知らずなのです。神様がその民を裁くために、たとえ拳がかざされることがあっても、彼らはその裁きの恐ろしさを知らないがために高ぶり続け、ついには滅びに到ってしまいました。<br />
　箴言だけでも、おごり高ぶりに関して、多くの知恵の言葉が書かれています。箴言11:2,13:10,16:18,18:12,21:24,29:23。<br />
<br />
<b>３．後ろの戸を閉じて</b><br />
<br />
　私たちは滅びに到らないためにも、人生のでこぼこ道のまっただ中で、どのようにして神様の御前に出るべきなのでしょうか。それは、どんなときにも主をせつに求めるということです。<br />
<br />
<b>26:9 わが魂は夜あなたを慕い、わがうちなる霊は、せつにあなたを求める。あなたのさばきが地に行われるとき、世に住む者は正義を学ぶからである。<br />
26:16 主よ、彼らは悩みのとき、あなたに求めた。彼らがあなたの懲らしめにあったとき、祈をささげた。　</b><br />
<br />
　真夜中の真っ暗闇の中であるならば、石ころに躓くかもしれないという不安がつきまといます。あるいは悩みのまっただ中で、あるならば、ただただその状況から逃れるためにもがき苦しむだけです。<br />
　しかし、神様はそのような苦しみ悩みのどん底の中で、神様をせつに求めなさいと勧められます。神様をせつに求めるとはどのようにしたら良いのでしょうか。<br />
<br />
<b>26:20 さあ、わが民よ、あなたのへやにはいり、あなたのうしろの戸を閉じて、憤りの過ぎ去るまで、しばらく隠れよ。</b><br />
<br />
　すなわち、退路を断って、後ろの戸を閉じて、身を隠すと言うことです。すなわち、主の前に祈ると言うことです。姑息な手段ではなく、人間的な方策や手立てではなく、神様の時を待ち、神の解決を待ち望むことです。<br />
　<br />
　後に私たちは神様の解決を知ることになります。主は私たちの求めに応えてくださり恒久の解決を与えられました。それは、十字架による救いの完成です。主はそれを成し遂げてくださいました。解決は主にあることを信じて、後ろの戸を閉じて解決を主に求めましょう。主は解決を与えてくださいます。<br />
<br />
<b>26:12 主よ、あなたはわれわれのために平和を設けられる。あなたはわれわれのためにわれわれのすべてのわざをなし遂げられた。</b>]]></description>
 <category>信仰・教会</category>
<comments>http://www.jhcs2.org/blog/saeki/index.php?itemid=92</comments>
 <pubDate>Thu, 27 Sep 2007 10:54:41 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title><![CDATA[<b>主に信頼せよ</b>]]></title>
 <link>http://www.jhcs2.org/blog/saeki/index.php?itemid=91</link>
<description><![CDATA[<b>◎聖書箇所…イザヤ26：1～6</b><br />
　26章が語られた時代は、アッスリヤの勢力が神の民イスラエルを圧迫し、人々は不安に駆られ、エジプトなどこの世の力に助けを求め、頼るべきものを得ようとしていた時でした。私たちは、困った時にわらにもすがる思いで、人や物に助けを求めます。あなたは人生の非常事態に何に頼っているでしょうか。<br />
<br />
<b>１．堅固な町、岩なる救いの神</b><br />
<br />
イザヤ26:1 その日ユダの国で、この歌をうたう、「われわれは堅固な町をもつ。主は救をその石がきとし、またとりでとされる。<br />
<br />
　神の民イスラエルが忘れてはならなかったことは、イスラエルには「堅固な町」があることです。<b> 「堅固な町」</b>とはエルサレムを指しています。エルサレムには強固な石垣の城壁に囲まれ、敵の攻撃にも確かな守りがあります。<br />
　<br />
　私たちにとって、その<b> 「堅固な町」</b>エルサレムは、地理上のエルサレムではありません。ヘブル書の作者は信仰の勇者達を列挙しながら、彼らは天に用意された揺るがぬ土台の上に立てられた都を示しています。<br />
　<br />
<b>ヘブル13:14 この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。</b><br />
<br />
　この地上に望みを置くのではありません。神様が備えられた永遠の都エルサレム、それは神の民に与えられる神様の救いの確かさを示しています。私たちの頼るべきは、この世の人や物ではなく、堅固な町をとりでのように備え、石がきをもって私たちを救い、守ってくださる神様です。また、神様は「とこしえの岩」ともたとえられる神様です。その守りは、岩のようにとこしえです。<br />
<br />
<b>２．救いの門戸は開かれている</b><br />
<br />
<b>イザヤ26:2 門を開いて、信仰を守る正しい国民を入れよ。</b><br />
<br />
　そして、その堅固な町の門は、イスラエルの民だけでなく、<b> 「信仰を守る正しい国民」（2）</b>にも開かれています。イスラエルの民だけでなく。やがて、異邦人にまで及ぶ福音の広がりを表した言葉でもあります。門戸は開かれて、この救いが私たちにまで及んでいることを感謝いたします。<br />
<br />
<b>３．全き平安なる救い</b><br />
<br />
「あなたは全き平安をもってこころざしの堅固なものを守られる」（3）とあります。<br />
<br />
　アッスリヤの圧迫を受けて、不安におののく神の民に対して、神様の思いがこの歌の中につづられています。<br />
　<br />
　聖書の原本には、平安（シャローム）を２回続けて書いています。それは、神様の平安が、完全で、完璧な平和であることを示しており、中途半端な平和ではないのです。<br />
　<br />
　そして、その「全き平安」は、 <b>「こころざしの堅固」</b>で、神様に<b> 「信頼している」</b>者に与えられるのです。それは、神様にしっかり信頼している人のことであって、自分の力により頼まないで、この世に望みを置かない人たちのことです。<br />
そのような人には、神様は全き平安、すなわち平和で平和、２重の平和、確かな平安に導いてくださるのです。<br />
　<br />
<b> 26:4 とこしえに主に信頼せよ、主なる神はとこしえの岩だからである。</b>]]></description>
 <category>信仰・教会</category>
<comments>http://www.jhcs2.org/blog/saeki/index.php?itemid=91</comments>
 <pubDate>Mon, 17 Sep 2007 22:17:45 +0900</pubDate>
</item>
  </channel>
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