Category: 信仰・教会
Posted by: saeki
 長いお休みをいただいてしまいました。私の働きは、青年宣教におけるインターネツトを通しての伝道ということもあって、裏方ながら色々と忙しさが続きます。昨年の末から、特にマルチメデイアを用いた宣教についての働きを進めてきました。インターネットの動画配信やビデオ編集など、私の仕えている2教会の牧会伝道の合間の時間を当てて奉仕をしています。ネットやビデオの働きは、福音を伝えるためには有効で、いろいろな方面からその効果を聞かされます。ビデオだけでも、この半年間にDVDでも何百枚も制作することができました。四国教区の聖会ビデオ、Youth Jamのプロモーションビデオ、全四国クリスチャン修養会のビデオなど、その働きは、教団、教区、超教派に広がっています。

 あまりの忙しさに、ついに4月には体調崩して、帯状疱疹を煩ってしまいました。お年寄りに多い病気だと言われいますが、若い人でも抵抗力が弱りますと、水疱瘡を経験した人に潜むと同じウィルスが弱さにつけ込んで活動を開始するというのが帯状疱疹です。寝返り打つこともできないような激痛が続き、放心状態で、あわや退場となりかけてしまいました(^^;)。

 痛みの中で、神様からの休息命令と信じて、思い切って四月中は教会の行事以外は、しっかりと休みをとらせていただきました。おかげさまで、今は元気いっぱいで、これからの教区賛美大会と夏に東京代々木で開かれるYouth Jam 2008の裏方の働きのために力を蓄えることができました。力と言っても肉的な力と言うよりも、霊的な力と言うべきでしょうか。

 どんなに忙しくても、やっぱりお祈りは大切です。お勉強やお遊び。パソコンやテレビも、お仕事や奉仕も必要ですが、それ以上に祈りが無くてはクリスチャン本来の力を発揮することはできません。その力は、神様からの力です。

使徒1:8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう

 さあ、再び立ち上がります。そろそろ書き始めます。お休みの間も毎日のように、お越し下さった皆さんに感謝いたします。私は主にあって、元気ですよ!!
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Posted by: saeki
◎聖書箇所…イザヤ27:1~6
 収穫の秋を迎えました。越知教会に向かう道中のぶどう畑もたわわの房を実らせています。収穫の秋を迎えました。神様はイスラエルの民を無ぶどう畑になぞらえて、麗しきぶどう畑と言っています。

 決して麗しさがあるわけではありません。一度は失われた民を主は回復し、祝福してくださる回復された姿を麗しいと言ってくださっているのです。イザヤ書5章でもぶどう畑の歌がありました。そこでは、主が備えられたぶどう畑は、酸いぶどうをならせてしまいました。それで主はぶどう畑(イスラエル)をさばかれるという絶望的な歌でした。しかし、この27章では、主がユダのぶどう畑を祝福される歌です。
  
 土曜日は、FEBCのアナウンサーの吉崎恵子さんが、伊野教会まで来られ、私たちの教会の取材と私と信徒の証しの収録をされました。過去を振り返りながら、神様のなされた恵の数々を振り返ることは、私にとっても大きな恵みとなりました。一度は、神様のもとを離れて失われていた私も、神様は拾い上げてくださり、麗しい神様の実り・祝福をいただいていることを改めて振り返ることが出来ました。
 
1.和らぎの実り

 さて、神様はそのような麗しい実りをどのようにして私たちに与えてくださるのでしょうか。それは、まず第一に「和らぎの実り」だと語ります。

 神様はぶどう園の農夫のように(ヨハネ15:1)、ぶどう畑を守り、水を注ぎ、養われます。実りを妨げるいばらやおどろを踏みつぶされ、取り除かれます。
 
 預言の対象でありました南ユダ王国には、大国アッスリア、バビロン、ペルシャ、エジプトなどの大国や近隣諸国の脅威がありました。私たちに迫り来る、サタン、飲みつくすべきものを求める狡猾な蛇のようでした。神の民でありながら、真の神から離れ偶像崇拝の罪の中にあった北イスラエルはさばかかれました。神の民の実りの妨げは、神様との関係を断ち切ってしまう罪の問題です。
 
27:5 それを望まないなら、わたしの保護にたよって、わたしと和らぎをなせ、わたしと和らぎをなせ」。
27:6 後になれば、ヤコブは根をはり、イスラエルは芽を出して花咲き、その実を全世界に満たす。

 
 実を結ばない枝はすべて除かれ焼き捨てられますが、そのように望まないのなら、神様の保護にたより、神様と和らぎをなせと勧められます。
 
 この「和らぎ」という言葉は、26章にも出てきましたヘブル語でシャロームという言葉です。「平安」「平和」と訳されています。もともとは、内に満ち満ちている、充足されている状況を表します。「繁栄」「健康」「救い」「勝利」とも訳される言葉です。
 主が苦しめられ、十字架につけられたことによって、私たちに神のシャロームが与えられたのです。(イザヤ53:4~6) 神との平和、シャロームこそが一番大切なのです。

エペソ2:14~16 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。 

 そして、和らぎとは神様との平和の回復のために、神様と和解をすることです。私と神様との間に隔てられている中垣が取り除かれて、一つの体のように神様と和解することです。

 神様の保護のもとにあるその和らぎにより、「…根をはり、…芽を出して花咲き、その実を全世界に満たす」(6)とその祝福を約束されています。私たちも神様との和解により、真の平和である救いの祝福が与えられるのです。 

2.贖いの実り

 さて、それではどのようにしてその和解が得られて神様と和解することができるのでしょうか。第二にそれは、贖いの実りということです。実を結ぶためには、罪が取り除かれ、その不義が贖われる必要があるのです。
 
27:9 それゆえ、ヤコブの不義はこれによって、あがなわれる。これによって結ぶ実は彼の罪を除く。
 
 7~11節は、神の民へのさばきと荒廃について預言されています。さばきの目的は、民の贖いのためなのです。贖いには犠牲が伴います。また、主は民を「撃たれ」「殺され」「追放」されました。イエス様も、同じような苦しみに遭われて、十字架で死なれました。贖いには、そのような痛みが伴います。
 
 しかし、神様は「これによってあがなわれ」「これによって結ぶ実は罪を除く」(9)のです。主は、真の祝福をイスラエルに与えるために、イスラエルをさばかれるのです。そして、その贖いによって実を結ばれるのです。
 
 私たちも麗しい実を結ぶためには、イエス様の十字架による罪の贖いが必要です。私たちがまず、その罪を認め、罪を悔い改めることです。イエス様の十字架の血潮はどんな罪で贖いきよめます(Ⅰヨハネ1:7,9)。
 
 そして、主は、アッシリヤからエジプトまでの散らされている神の民を、ひとりひとりを「拾い上げて」(12新改訳、共同訳)くださいます。神さまは一人一人を大切にされるお方です。
 
 神様は農夫のように私たちを見守り、平和を与え、私たち一人一人を「ひとりひとり拾い集め」(12)てくださるのです。神様は私たちを見捨てられるお方ではありません。神様と和解し、罪赦され贖われた者は、 「あなたがたを捨てて孤児とはしない」(ヨハネ14:18)と約束されているばかりが、麗しいぶどう畑のように実のり豊かな祝福を与えてくださるのです。
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Posted by: saeki
◎聖書箇所…イザヤ26:1~6

1.義人の道は平ら(7~8)


 人生を道にたとえられることが多くあります。その道を振り返ると時に、その道は時には険しく、曲がりくねったでこぼこ道だったりします。
 イスラエル歴史も、イザヤの時代を見ても決して平坦ではありません。南北に大国に囲まれ、大国の相次ぐ侵略の中で、北は滅びやがて南も滅びていくような険しい道のりです。
 神様の選びの民でありながら、どうしてこんなにも厳しい裁きの中を通過しなければならなかったのでしょうか。
 それは、義なる神様のゆえです。神様はどんなに小さな悪をもお嫌いになる厳正なお方だからです。しかし、その厳しさのために、でこぼこの道を平らにされ、なめらかにされるのです。
 それはまた、聖なる神様のゆえです。神様は聖俗混在されるお方ではありません。異教の俗なる物を無神経にも取り込んでしまった民をきよめるためでした。
 そして、愛なる神様のためです。わがまま勝手な民を愛するがゆえに、神様はあえて訓練されました。

「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」(ヘブル12:6)。

 曲がりくねったでこぼこ道を平らにするために、聖・愛・義なる神様は、ひとり子イエス様をも惜しまず与え、むち打たれ、救いの道を平らにされました。

2.悪しき者は正義を学ばず(10~11)

 しかし、どんなに救いの道を示されても、どんなに恵まれた状況の中に置かれても、「正義を求めず」むしろ、不義を行い続けます。なぜならば、彼らは神様を認めず、神様に信頼を置こうとしないからです。
 自分を中とした己を神とする高慢さのゆえに、神様に対する畏れはありません。恐い者知らずなのです。神様がその民を裁くために、たとえ拳がかざされることがあっても、彼らはその裁きの恐ろしさを知らないがために高ぶり続け、ついには滅びに到ってしまいました。
 箴言だけでも、おごり高ぶりに関して、多くの知恵の言葉が書かれています。箴言11:2,13:10,16:18,18:12,21:24,29:23。

3.後ろの戸を閉じて

 私たちは滅びに到らないためにも、人生のでこぼこ道のまっただ中で、どのようにして神様の御前に出るべきなのでしょうか。それは、どんなときにも主をせつに求めるということです。

26:9 わが魂は夜あなたを慕い、わがうちなる霊は、せつにあなたを求める。あなたのさばきが地に行われるとき、世に住む者は正義を学ぶからである。
26:16 主よ、彼らは悩みのとき、あなたに求めた。彼らがあなたの懲らしめにあったとき、祈をささげた。 


 真夜中の真っ暗闇の中であるならば、石ころに躓くかもしれないという不安がつきまといます。あるいは悩みのまっただ中で、あるならば、ただただその状況から逃れるためにもがき苦しむだけです。
 しかし、神様はそのような苦しみ悩みのどん底の中で、神様をせつに求めなさいと勧められます。神様をせつに求めるとはどのようにしたら良いのでしょうか。

26:20 さあ、わが民よ、あなたのへやにはいり、あなたのうしろの戸を閉じて、憤りの過ぎ去るまで、しばらく隠れよ。

 すなわち、退路を断って、後ろの戸を閉じて、身を隠すと言うことです。すなわち、主の前に祈ると言うことです。姑息な手段ではなく、人間的な方策や手立てではなく、神様の時を待ち、神の解決を待ち望むことです。
 
 後に私たちは神様の解決を知ることになります。主は私たちの求めに応えてくださり恒久の解決を与えられました。それは、十字架による救いの完成です。主はそれを成し遂げてくださいました。解決は主にあることを信じて、後ろの戸を閉じて解決を主に求めましょう。主は解決を与えてくださいます。

26:12 主よ、あなたはわれわれのために平和を設けられる。あなたはわれわれのためにわれわれのすべてのわざをなし遂げられた。
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Posted by: saeki
◎聖書箇所…イザヤ26:1~6
 26章が語られた時代は、アッスリヤの勢力が神の民イスラエルを圧迫し、人々は不安に駆られ、エジプトなどこの世の力に助けを求め、頼るべきものを得ようとしていた時でした。私たちは、困った時にわらにもすがる思いで、人や物に助けを求めます。あなたは人生の非常事態に何に頼っているでしょうか。

1.堅固な町、岩なる救いの神

イザヤ26:1 その日ユダの国で、この歌をうたう、「われわれは堅固な町をもつ。主は救をその石がきとし、またとりでとされる。

 神の民イスラエルが忘れてはならなかったことは、イスラエルには「堅固な町」があることです。 「堅固な町」とはエルサレムを指しています。エルサレムには強固な石垣の城壁に囲まれ、敵の攻撃にも確かな守りがあります。
 
 私たちにとって、その 「堅固な町」エルサレムは、地理上のエルサレムではありません。ヘブル書の作者は信仰の勇者達を列挙しながら、彼らは天に用意された揺るがぬ土台の上に立てられた都を示しています。
 
ヘブル13:14 この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。

 この地上に望みを置くのではありません。神様が備えられた永遠の都エルサレム、それは神の民に与えられる神様の救いの確かさを示しています。私たちの頼るべきは、この世の人や物ではなく、堅固な町をとりでのように備え、石がきをもって私たちを救い、守ってくださる神様です。また、神様は「とこしえの岩」ともたとえられる神様です。その守りは、岩のようにとこしえです。

2.救いの門戸は開かれている

イザヤ26:2 門を開いて、信仰を守る正しい国民を入れよ。

 そして、その堅固な町の門は、イスラエルの民だけでなく、 「信仰を守る正しい国民」(2)にも開かれています。イスラエルの民だけでなく。やがて、異邦人にまで及ぶ福音の広がりを表した言葉でもあります。門戸は開かれて、この救いが私たちにまで及んでいることを感謝いたします。

3.全き平安なる救い

「あなたは全き平安をもってこころざしの堅固なものを守られる」(3)とあります。

 アッスリヤの圧迫を受けて、不安におののく神の民に対して、神様の思いがこの歌の中につづられています。
 
 聖書の原本には、平安(シャローム)を2回続けて書いています。それは、神様の平安が、完全で、完璧な平和であることを示しており、中途半端な平和ではないのです。
 
 そして、その「全き平安」は、 「こころざしの堅固」で、神様に 「信頼している」者に与えられるのです。それは、神様にしっかり信頼している人のことであって、自分の力により頼まないで、この世に望みを置かない人たちのことです。
そのような人には、神様は全き平安、すなわち平和で平和、2重の平和、確かな平安に導いてくださるのです。
 
26:4 とこしえに主に信頼せよ、主なる神はとこしえの岩だからである。
Category: 信仰・教会
Posted by: saeki
 この間、とても嬉しいことがありました。何ヶ月も教会を休んでいた青年が教会に帰ってきました。かわいらしい彼女を伴って「これからは礼拝を休まず来ます」って、なんと嬉しいことでしょう。

 そしてまた違う話なんだけど、今週、祈祷会が終わってから青年が一人残りました。三年間も悩んで、苦しんで、やっと解決の糸口が見えてきました。夜を徹して話し合い、共に祈り合い、共に涙しました。神様の導きはなんと素晴らしいことでしょう。

 私も苦しかったです。眠れない夜をどれだけ過ごしたでしょう。時には涙し、苦しみました。でも神様は小さな祈りに見事に応えてくださいました。祈る以外には何もすまいと決意してこの半年間、やっと解決を見ることが出来ました。ただ神様のあわれみによることを知りました。神様は誠に生きておられます。

ローマ9:16 人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによる。

詩篇 46:8 来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。
46:9 主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。
46:10 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。
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Posted by: saeki
 皆さんは、礼拝時に睡魔に襲われることはありませんか。講壇の上からは、よく見えてしまうもので、疲れていらっしゃる方々を気の毒に思うことがあります。出来れば主日前は早寝早起きで礼拝に臨んでいただきたいものです。
 
 そうは言っても、遊びのためでなく、仕事の忙しさのために、無理をしてでも、主日を聖別して、礼拝に出られている方々もいらっしゃることでしょう。そのようなお疲れの方々のために朗報です。
 
 眠気覚ましのタブレットキャンディーを紹介します。某菓子メーカーから出ている製品で、糖分不使用の低カロリーで、なかなかのすぐれ物です。しかも、一粒口にすれば、瞬間で目が覚めます。
タブレット 

 コーヒーですと水分の取りすぎで、尿意を催すことがありますし、糖分の取りすぎは体に良くありません。また、栄養ドリンク剤も取りすぎると栄養の過多でよくなさそうです。また、ガムタイプは口をクチャクチャしますから、礼拝中には不向きです。私の教会では何人かが、このタブレット製品を利用しているためか、お目目もパッチです。
 
 ただし、この商品は一般のスーパーやコンビニでは見つけにくい製品のようです。皆さんの地域はあるでしょうか。お試しあれ! とは言っても、無理は禁物です。神様からいただいた体ですから、大切にしてくださいね。  
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Posted by: saeki
◎聖書箇所…イザヤ25章

 厳しい世間の波風にもまれて、私たちはこの世に生きています。人間関係の難しさや、経済的な困難、将来に対する不安など、とても厳しい状況が私たちを取り巻いています。私たちはクリスチャンとして、いかにこの世を生きていくのでしょうか。

 イザヤ書25章を開きますと、私たちと同じような状況下にあるイスラエルに対して、神様が語られた預言の言葉が記されています。敵のアッスリヤの勢力が迫る中、イスラエルの民が必要としたものが何であるかを詩的な表現により神の啓示を示しています。
 
1.いにしえのみわざ(1~5) 

 まず、真実な神様のみわざに対する感謝の歌が捧げられています。「いにしえから定められた」(1)、神様のみわざをとは何でしょうか。神の民であるイスラエルにとっては、モーセによる出エジプトに始まった救いの歴史です。しかし、イザヤ書をみる時にその救いは、ユダヤ人にとどまらないで、すべての人に及ぶ救いのみわざであることを知ることが出来ます。イザヤ書7章の 「インマヌエル」 、そして9章で 「ひとりのみどりご」 、11章で、 「エッサイの株からでた若枝」と呼ばれるイエス・キリストによる尊い救いの事です。主は、ご自分の御子を救い主としてこの世に遣わし、罪の世を終りにして新しい時代を始めるという、驚くべき御業を行われました。
 
 いにしえから、私たちはキリストにあって祝福されるように計画されていました(エペソ書1:3)。2千年前に、キリストが来臨されたのは、いにしえから定められたご計画であったのです。
 
 また、いにしえから、万事を私たちのために働かせて、私たちがキリストに似た者となるように計画してくださいました(ローマ8:28~29)。

 イザヤの時代に起こったアッスリアの驚異にも、神様は真実の限りを尽くして下さいました。そして、私たちにも、十字架の贖いによる驚くべきみわざを成してくださいました。
 
2.死を滅ぼされるみわざ(6~8)

 いにしえからの主のご計画は、永遠に死を滅ぼし、クリスチャンから涙とはずかしめを除かれることです。

 神を信じる者の敵は、第一に、すべての人と同様に、「死」です。死は、私たちのすべてを無に帰する力を持っています。しかし、主は、キリストの十字架によって、死を滅ぼされました。クリスチャンは、死によって、自分の価値が無に帰することはないのです。

 また、クリスチャンのもう一つの敵は「恥」です。神を信じているのに、私たちは「不信仰」という恥があります。自分の信仰の弱さと、真理をしる知識の欠乏のゆえに悲しみを味わいます。また、私たちは、主に対する信仰の弱さのために罪を犯し、義に生きたいと願いながら、神の国にふさわしくない行いをしてしまい、神様から離れてしまいます。

 ところが、神様はこれらの不信仰の罪のために、いにしえからその罪の赦しの道を、キリストにあって備えてくださったのです。主が私たちに備えてくださったみわざは、 「わたしがあなたがたに対していだいている計画は…、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするもの」(エレミヤ29:11)です。

3.救いの喜び(9~12)
 災いと敵に取り囲まれながらも、それを乗り越え、勝利する秘訣はあるのでしょうか。
 
「彼はわたしたちを救われる。これは主である」(25:9)。私たちの勝利は救いです。そして、その救いは主によって与えられます。

 10節以下には、敵の一民族であるモアブのことが記されています。モアブ人は、アブラハムの甥のロトの姉娘が父ロトによって産んだ子で、イスラエルとは血縁関係にありましたが、罪汚れたモアブ人という見方がありました。士師の時代には、ボアズはモアブ人ルツと結婚し、ソロモン王もモアブの女性をめとっていました。

 しかし、彼らは偶像崇拝の民であり、イスラエルとの関係も敵対関係の時期が多く、争いが絶えませんでした。アッスリアの時代は支配下に置かれ、バビロンの時代には、カルデア人とともにユダを攻めています。そして、神様はそのようなモアブを裁かれました(イザヤ25:10)。モアブは、神によりその高ぶりは低くされ、ちりのようにされました。
 
 主のお約束は、救いと勝利です。その勝利はイスラエルの手によってではなく、神様ご自身が私たちを救われるのです。
 
25:9 その日、人は言う、「見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう」と。 
 
 ただ、私たちは「彼を待ち望む」(25:9,40:31)ことです。全く勝つ見込みのないような押し迫った状況でも、神様は救いを持って勝利としてくださいます。そして、私たちはこの救いを喜ぶことが出来るのです。
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Posted by: saeki
◎聖書箇所…イザヤ書13章~14章
 現代からさかのぼるところ約2700年前、北イスラエル王国の滅亡とアッスリアの圧迫が続く国際情勢の中で、イザヤは預言活動を行っていました。イザヤ書13章から23章は様々な国家や都市があげられて、神様からの託宣が語られています。託宣とは新改訳聖書では、宣告と訳されていますが、厳しい災厄の伴った預言です。人間の神様に対する期待は、慈愛や寛容であったりいたします。しかし、旧約聖書の多くの箇所には神様が非常に厳しいお方で、激しい裁きを下されるお方であることを垣間見ます。

ロマ1:18 神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。
 
 しかし、神様はただ感情にまかせて、当たり散らすような理不尽な怒りのお方ではありません。怒りにはそれなりの理由があるのです。
 
 まず、イザヤ書の13章に出てくるのは、バビロンに対する神様の託宣です。バビロニアはアッシリアの次に世界を席巻する大国です。イザヤの時代には未だ出来ていない国でした。やがて、このバビロンによって南ユダ王国は滅ぼされ、イスラエルの民に対する神様のご裁断です。しかし、そのバビロニアでさえ神様は、裁かれるお方です。バビロニアでさえやがて、神様の御手により滅びます。
 
 神様の裁きは、邪悪で罪のある者に対しては徹底されます。神様はどんなに小さな罪をもお嫌いになるお方です。かつて、世界文明や力ある国々が滅びていった背景には罪の問題があります。統治者行政の不正横領、モラルの低下、社会にはびこる邪悪などその問題を挙げれば数限りなく、しかも現代の私たちの社会にも通じる問題が挙げられます。
 
イザヤ13:9 見よ、主の日が来る。残忍で、憤りと激しい怒りとをもってこの地を荒し、その中から罪びとを断ち滅ぼすために来る。

 滅びの原因となった邪悪の原因は、聖書ははっきりと罪の問題であることを指摘しています。バビロンの問題は実は私たち一人一人にある罪の問題であることに気づかされます。
 
ロマ3:23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
ロマ6:23 罪の支払う報酬は死である。


 バビロニアはやがてこの邪悪と罪の問題のために滅びていきました。
 
 しかし神様は感謝です。自国も滅んでしまったイスラエルに対して、神様はあわれみのメッセージが語られています。

イザヤ14:1 主はヤコブをあわれみ、イスラエルを再び選んで、これをおのれの地に置かれる。異邦人はこれに加わって、ヤコブの家に結びつらなり、
イザヤ14:2 もろもろの民は彼らを連れてその所に導いて来る。そしてイスラエルの家は、主の地で彼らを男女の奴隷とし、さきに自分たちを捕虜にした者を捕虜にし、自分たちをしえたげた者を治める。


 神様はイスラエルをあわれんで再び選んでくださるのです。自分の国は滅び、一度は捨てられたかのように思われたイスラエルも、おのれの地に再び帰されるというのです。
 
 それが実現したのが、BC539でした。バビロニアに代わって力を増してきたペルシャのクロス王は、捕われの身になっていた諸国の民をそれぞれの国に帰しました。事実、 BC538年のクロスの勅令によって、イスラエルの民はエルサレム帰還を許されました。
 
 歴史の中に働かれる神様は、すべての国を支配し、人を動かして御心を成されるお方です。神様は罪に対しては厳しい裁きを下されるお方ですが、その罪人をあわれみ、再び選び回復してくださるお方でもあります。そして、神様のあわれみは、神の御子イエス・キリストを通してあわれみを示してくださいました。しかもその救いは、イスラエルだけに留まらないで、 「異邦人はこれに加わって、ヤコブの家に結びつらなり、もろもろの民は彼らを連れてその所に導いて来る」(イザヤ14:1~2)。すなわち、この救いは異邦人にまで及ぶのです。
 
ヨハネ3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
 
 神様の御心は、裁きと滅びではありません。哀れみによる回復、永遠の命にです。神様はイザヤを通して、バビロンへの託宣の中にも、救いのメッセージを語られているのです。神様の救いのドラマは、今の時代も続いているのです。
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Posted by: saeki

 香川に娘を送るために、暑さの残る讃岐路に出かけました。ETC タイムに自宅を出て、通勤割引圏内(100km以内)の川之江で下車し、向かうは例の如くのうどんツアーです。

 まずは、国道11号線を川之江から、香川に向かって走ります。30分ほどで県境にある、「鳥越うどん」にたどり着きました。朝の9時半、しかも平日であるのに店内はほぼ満員です。本格的な手打ちの讃岐最西端の店と言われるだけあって人気のお店です。

 注文はシンプルに「かけ」と「ぶっかけ」と「ひやかけ」の三種類で、あとはトッピングの揚げ物が並んでいます。支払いを終えると、今回初めて目に飛び込んできたのが、漬け物の無料食べ放題でした。茄子に胡瓜に白菜の自家漬けが大皿に豪快に盛られて、「持ってけ」とばかりに盛られています。タダというからには盛らない訳はありません。小皿一杯にいただいて、うどんとともに座席に着きました。

 私と家内はひやかけで、娘はかけです。どちらも、うどんは太麺、だし汁は炒り子ダシが香る薄味仕上げです。薄味と言っても決して薄すぎると言うわけでなく、腰のある麺とのマッチは抜群です。夏はやっぱり冷たいのが良いようです。麺が締まって噛み応えもありますし、喉越しの冷たさは暑さの中では気持ちがいいものです。あっという間に平らげて、あわや汁まで飲み干すところでした。この満足で、「かけ」も「冷やしかけ」もたったの200円です。書き忘れるところでしたが、漬け物が本格的なぬか漬けで、化学調味料を使わない、本格的なぬか床で醸し出された味わいで、主役のうどんを盛り上げるためには十分すぎるほどの名脇役でした。

 

 さて、道は国道11号から逸れて豊浜から国道377号線に入り、東に向かいます。のどかな田園地帯が続く中にもうどん屋さんが点在します。農家の納屋でやっているようなうどん屋さんに、時間が止まったような昭和初期を思わせるようなうどん屋さんなどが通り過ぎていきます。今回は通り過ぎましたが、次回は是非訪問したいお店たちです。

四国学院時計台四国学院ホワイトハウス

 うどん屋に向かう道中ですが、娘の通う四国学院大学に立ち寄ることになりました。本広克行監督の作「サマータイムマシン・ブルース」「UDON」はこの大学が舞台となりました。美しい芝生にホワイトハウス、時計台、そして、善通寺のレトロな町並みに、昭和の郷愁に駆られます。映画の内容はともかく、コミカルな面白い作品です。

 さて、最終の目的のうどん屋さんは「山越」です。ここのうどんは「釜たま」と呼ばれる釜揚げの熱々のうどんに生卵を絡ませて食べるタイプです。いわゆる和製カルボナーラと言うべきうどんです。ここのうどんは腰が強くだし汁もうまいし、何よりも安さが売りです。かけは一杯なんと100円で、かまたまも150円です。讃岐うどんでは一番人気で、昼時は行列で待ち時間20~30分という時もあるそうです。当日は、午前中であったため、数分待ちで釜たまにありつくことが出来ました。

 そして、この写真は山越の入り口に立つ、名物の交通安全の人形です。何となく奇妙で、「早く人間になりたーい」っていう台詞の漫画があったのを思い出します。うどん屋を訪れるお客さんは、何故かこの人形の前で同じポーズで写真を撮ります。

 皆さんも四国においでになった際は、讃岐うどん巡りがお勧めです。サマータイムマシーンの一日、四国の歴史を味わいながらのうどんツアーでした。


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Posted by: saeki
◎聖書箇所…使徒行伝10章

 初代教会の福音宣教は、エルサレムから始まり、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまでと広がっていきました。使徒行伝時代から現在に至るまで、聖霊の働きは今も途切れることなく全世界に力強く続いているのです。

 ところが、私たちの身の回りを見ますと、一向に進まない宣教の現実を見ながら、いつのまにか否定的になり、時代や地域の所為にしたりもします。果たして、宣教が進まないの妨げはどこにあるのでしょうか。
 
 福音がユダヤ人の教会を超えて異邦人の地への突破口となったのが、使徒行伝10章の記事です。それは、カイザリヤに駐屯するローマの部隊の百卒長コルネリオ一族の救いがきっかけとなりました。
 
 始まったばかりの教会は、これまでの考え方によれば、神に選ばれた民以外は汚れた民であり、異邦人との交流すら禁じられていた(28)ために、異邦人伝道に対するためらいがありました。そのような問題を抱える教会に対して、神様はその筆頭であるペテロに対して、幻を見せられました。
 
 その幻は、お昼の祈りの時に与えられました。夢か幻か夢うつつの中で、天が開けて大きな風呂敷が四隅をつるされて降りてきます。その中には、地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生きものが入っていました。すると
「それらをほふって食べなさい」という声が聞こえてきたのです。その中に入っている動物は、レビ記11章などに記されている汚れた動物と思われます。すかさずペテロは答えます。 「わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」(14)と。

 律法において堅く禁じられていた食物を突然食べるように勧められても、未経験のために、また、先入観のゆえに食べられないのは当然のことです。しかし、更に神様はこのように言われます。 「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」(15)。いったい神様は、ペテロに何をお示しになったのでしょうか。律法により禁じられていた食べ物の話だけではないはずです。
 
 三度も示されたその不可解な幻を理解できないまま、コルネリオからの使いの訪問を受けました。今まで会ったこともない人物からの招待、しかも異邦人からの招きです。ペテロにとっては狐に抓まれたような話で、ためらいを隠すことはできませんでした。しかし、神様は固く閉ざされた先入観の壁を薄皮をはがすように、御霊の語りかけをもって、招きを聞き入れるように勧められました。
 
 ペテロは招かれた理由がなおも分からないままでしたが、翌日に使いの者と一緒にカイザリヤのコルネリオの所を訪れるのでした。すでに、不可解な風呂敷包みの動物を食する事の勧めが、異邦人を受け入れるようにと、一挙に心が開かれたのは、コルネリオの驚くべき言葉によります。
 
 30節以下のコルネリオの言葉は、異邦人の身にも神様は啓示を与えておられるという驚くべき事実でした。割礼を受けた改宗者ではなかったコルネリオでしたが、ユダヤ人に好意を寄せて神様を恐れかしこみ、絶えず神様に祈っていたひとでしたが、この異邦人にも神様は啓示を与えてくださったのです。今まで見ず知らずであるはずのペテロの名と滞在地までも示されて尋ね当て、招かれた驚くべき経緯がコルネリオによって明らかにされました。正に人のわざではなく、神様の導きのほか考えられません。
 
 そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました。(10:34~35)
 
 神様はペテロの持っていた先入観を力ずくでこじ開けられるようなことをされませんでした。固く閉ざした心を少しずつ解きほぐすかのように、幻を見せ、人を遣わし、そして、状況を整えて下さいました。
 
 ペテロは引き続き、コルネリオの一族に、福音のあらましとイエス様が自由時価の贖いと復活、そして、ペテロ自身もその証人であることを語りました。
 
 するとどうでしょう。ペンテコステの時に起きた出来事と同じような出来事か起こりました。ペテロの話を聞いていた人々に聖霊が降りました。ペテロと連れだってヨッパから来た兄弟たちも目の当たりにして、異邦人伝道を否定することが出来なくなってしまいました。使徒行伝1:8節の「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで」という御言のとおり、ついに異邦人の上にも聖霊がくだり、異邦人伝道への確信が与えられ、異邦人伝道の道はここに開かれたのです。
 
 宣教の妨げは、私たち先入観です。家族伝道や友人伝道も先だった否定的な思いや考えが、大きな妨げになっていることはないでしょうか。この人は救われない、この状況は打破できないといつしか私たちは福音を伝えることに消極的になっていることはありませんでしょうか。しかし、その宣教の妨げを突破してくださるのは、神様であり、神様の導きと助けが大切です。神様はその妨げで、まずは私たちの先入観を取り除けるために、御霊と御言による啓示を私たちに与えてくださっています。しかも個々に併せて無理なく、少しずつ神様は人を遣わし、状況を整えてくださっています。
 
 「神は人をかたよりみないかたで、神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さる」(10:34~35)のです。
 
 食わず嫌いにならないで、苦手なあの人この人を受け入れて、福音を語ってみましょう。