Category: 信仰・教会
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 この詩篇は、38篇と同様に嘆きの詩です。「黙して語らず」と沈黙を守っている作者の姿を見ることができます。「沈黙は金 雄弁は銀」という言葉がありますが、イギリスの思想家・政治家「カーライル」が「衣装哲学」という著書の中にある、"Speech
is silver, silence is golden."を訳したものだそうです。オバマ大統領のように雄弁は多くの人々に好感を持たれますが、時には高倉健のように沈黙が雄弁よりも効果的な場合もあるものです。詩篇39篇の作者であるダビデは「黙して物言わず」(2)とありますが、どうして黙して語らなかったのでしょうか。



1.沈黙のわけ



 作者は人生の空しさの圧迫のために、黙して語らなかったようです。彼には、三つ空しさがありました。沈黙の原因の第一は、「わが命のいかにはかないかを」(4)とありますように「命のはかなさ」を感じているのです。

「その一生はただ、ほねおりと悩み」(詩篇90:10)であって、人生は瞬く間に過ぎ去ってしまうことを作者は実感していました。「盛んな時でも息にすぎません」(5)あるいは新改訳では「手幅ほど…ないのも同然…全くむなしい」(5)と訳されています。

 次に、悪人が栄える空しさのための沈黙です。必ずしも正義と公平が支配しない世の中を見るにつけ、不平や不満が口をついて出てきそうです。

 そして、三つ目は罪のための沈黙です(11)。罪の支配から免れることができないばかりか、人は罪の前に無力であることをダビデは一番よく知っていたはずです。悪人が栄えることに耐えがたい思いを感じながらも、しかし、その自分も神のみ前に決して完璧ではないのです。



2.沈黙の中の望み



 そうした人生の空しさに押しつぶされそうな毎日の中で、この詩篇の作者は言います。「主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります」(7)。望みのない人生は生きる気力を失わせます。しかし、この詩篇の作者はこの押しつぶされそうな空しさの中にあっても、ただ一つ頼りとすべきものを持っています。「わたしの望みはあなたにあります」という信仰です。神様だけが空しさから希望へと立ち直らせてくださるのです。



3.沈黙の中の祈り



 神様に希望を抱く沈黙の中で、作者は沈黙のままで終わっていません。彼はむなしい沈黙の中で涙を流しながらも、待ち望むべき神様に向かって祈り叫び求めています(12)。しかも、神様に身を寄せながら旅をする旅人のように、空しさの中にも伴って下さる神様と同行二人の巡礼者のようです。クリスチャンの空しさは、決して虚無ではありません。神様が共にいて下さるところの歩みです。この事が分かると私たちの沈黙は祈りが伴い、空しさで終わりません。

「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ」(詩篇37:7新共同)。

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◎聖書箇所…詩篇38:15~16



 詩篇38篇は、「嘆きの歌」と言われる詩篇です。解決の兆しが全く見えてこないような絶望の中で、詩篇の作者の嘆きとつぶやきが連続しています。神様を信じる者ならば、どんな試練の中でも、感謝と喜びにあふれて生きるのが当然と言わんばかりの生き方に期待しがちですが、現実の厳しさの中では、嘆きがあるのは当然のことです。この詩篇の作者は表題によるとおりダビデです。救い主メシヤの予表というべきダビデ王でさえ、人間の本性を隠すことなく露わにしているのは、聖書の真実さだと思います。そして、弱く醜い人の姿の中にも、一筋の信仰の光が輝いていることに気づかされます。



1.苦悩の中の嘆き



 ダビデの苦悩は何であったのでしょうか。10節までを見てみますと、その苦しみは肉体の痛みを伴う病としての訴えですが、具体的にどのような病気を患っていたのか、病理学的には特定されません。むしろ、不治の病を負うような罪の苦悩と解する方が分かりやすいと思います。

 ダビデ王はイスラエルの十二部族を統一したイスラエルの冠たる王様です。しかし、その輝かしい生涯にも大きな汚点がありました。

忠実な部下であるウリヤの妻バテシバに横恋慕してしまった大失態がありました。人妻であったバテシバに子供ができてしまった事を隠すために、夫ウリヤを戦闘の最前線に送り、殺してしまう大罪でした。王の立場で隠し通せるかと思われたこの失態は、預言者ナタンによって明らかにされます。その認罪と罪責の念がこの詩の中に嘆きとなって表れています(1~10)。しかも、友人や仲間、親族でさえも何の助けにもなりません(11)。むしろ、ヨブが試練を被った時に周囲が責め立てたように何の解決にもなりません(12)。

 私たちの人生にも誰にも話すことのできないような罪を原因とする大失態があるかもしれません。また、そのことを周囲が責めているかもしれません。そのような苦悩をどのようにしたらのりこえることができるのでしょうか。



2.しかし、待ち望みます



 何の解決も見いだせないような沈黙の苦悩の中で、ダビデはこのように語っています。「しかし、主よ、わたしはあなたを待ち望みます。わが神、主よ、あなたこそわたしに答えられるのです。私は祈ります」(15~16)。

 ここで呼び求めている神様の名は、〈主〉(ヤハウェ)、〈わが神〉(エロハーイ)、〈主〉(アドーナーイ)と異なった呼び方になっています。なんとかして主からの応答を得ようとする神様への期待がうかがえます。そして、「あなたこそ」と解決は神様にあることを明言しています。私たちの人生の究極の解決はどこにあるのかと言えば、やはり神様にあるのではないのでしょうか。どんなにつぶやき嘆いてもそこには解決はありません。また、解決の主は人ではなく神様です。

 彼は神様に解決を呼び求めるだけでなく、苦悩に至らせた問題の所在を明らかにしています。18節に「わたしは、みずから不義を言いあらわし、わが罪のために悲しみます」と罪の悔い改めをしています。ダビデは犯してしまった罪の問題の解決が、罪の悔い改めにあることを知っていました。預言者ナタンの指摘の前に神様の御前にくずおれて、「わたしは主に罪をおかしました」と悔い改めました。

 すべての苦悩の原因が全て罪の結果であるとは言えませんが、私たちは罪に対しては敏感であるべきです。そして、大切なことは神様に罪を悔い改めることです。

「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい」(使徒3:19)

「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(Ⅰヨハネ1:9)。

 拉致被害者の横田早紀江さんの手記に目が留まりました。

 ご主人と娘、双子の息子の三人の子に恵まれた、ごくありふれた幸せを味わう家庭にその事件は起こりました。昭和52年11月15日、下校途上のめぐみさんは忽然と姿が消えてしまったのです。

 苦悩の中で、めぐみさんと同学年のお子様のお母様が、「聖書を学ぶ会」の誘いに来られ、ヨブ記を読むように言われ、聖書を置いて帰られたそうです。涙にくれながら聖書のページを開き始めた早紀江さんの心にまっすぐに光を差し込んでくださった最初の時でありました。

「私は裸で母の胎からでた。また、裸で私はかしこに帰ろう。 主は与え、主は取られる」(ヨブ1:21)

 悲しさからだけではなく、不思議な感動の涙がとめどなく流れ落ち、自分の真面目さを「是」としていた汚さをいやというほど気づかされ、自分の小ささを思い知らされたそうです。こうして神様を信じ、昭和59年5月(これははからずも、不明の娘が成人の年)に洗礼を受けられました。そして、拉致から20年目にして、消息が明らかになりました。

 救出を持ち望む祈りは今も世界中でなされています。「しかし、…待ち望みます」(15)「主よ。わが主よ、すみやかにわたしをお救い下さい」(22)と。

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◎聖書箇所…詩篇37:29~40
 先日、バラエティー番組で、漫談師の綾小路きみまろのことが取り上げられていました。テンポのよい毒舌、皮肉、絶妙な語り芸で客席をドッと湧かせ、口コミで爆発的な支持を得た漫談家の苦労話に引かれました。今や漫才ブームの再到来で、若手の漫才師などによるショートコントが大流行です。その中でも「すべらない話」というさいころを転がして、当たった人が実話に基づいたすべらない話を紹介しあうちという番組があります。噺家はすべらないのが当たり前のようですが、人受けしないすべった人は消えていく運命にあるようです。すべらない話をするには、それなりの努力があるのです。
 本日の詩篇の言葉の中にも、「その歩みはすべることがない」(口語訳31)とあります。口語訳聖書の言う「すべらない」とは、「よろめかない」ことのようです。この世の歩みの中で、よろよろしないで、しっかりと歩くことができる人です。それは神様が認める正しき人、義人の歩みであり、クリスチャンの歩みです。世の風や嵐に、あるいは、デコボコ道のぬかるみに、あるいは、世の誘惑に酔いしれて足下が揺らいでいないでしょうか。本日は、今年私たちの教会に与えられている詩篇37:5節の、延長にある言葉より、正しき人の歩き方について、学んで行きましょう。
1.心におきてを(30~31)
 すべらない人は、第一に心におきてがある人です。おきてとは何でしょうか。堅苦しい言葉ですが、神様の言葉である聖書の御言です。詩篇の第1篇にも正しい者と悪しき者のことが対比的に書かれていますが、
「このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。」(1:2)。正しい者の心には、御言の貯えがあるので、その口には知恵があり、その舌は正義を語るのです。リビングバイブルでは、「神様を敬う人は正しく公平で、善悪をわきまえているため、すぐれた相談役を務めます。」(30~31)と訳されています。
 元鐘紡薬品の代表取締役の三谷康人さんは奥様の君子さんと共にクリスチャンです。「出世競争」「事なかれ主義」の掟がはびこる厳しいサラリーマン生活の中で、キリストと出会い、クリスチャンとなった三谷さんは、石油ショック後の長い不況の中で度重なる降格と左遷に会いながらも、「臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである」(Ⅱテモテ1:7)との御言を毎朝口ずさんで神様から力を得て、300人の部下にもその熱意が伝わり、大きな感化が与えたようです。「八味地黄丸」という商品に月間売上目標一億を掲げて挑戦し、これを上廻る実績をあげたために業界を驚かせたそうです。その祝福の秘訣は、聖書の御言であり、心に掟のある人はすべらないばかりか大きな祝福を手にすることができるのです。
2.主を待ち望め(32~36)
 すべったり、よろめかないために、第二のメッセージは「主を待ち望め」ということです。この言葉を聞くと、「主を待ち望む者は新たなる力を得」(イザヤ40:31)るという言葉を思い浮かべます。イザヤ書には、「鷲のように翼をはって上る」と補足されています。鷲は岩場に巣を作り、谷から吹き上がってくる上昇気流に乗って大空を駆け巡ります。小鳥の様にばたばたと羽ばたく鳥ではありません。
 今がどんなに悪い時代で悪しき人がはびこり、苦しめられ、正しく生きることに困難を覚えても、「その道を守」(34)ることです。途中で翼をたたんでしまうことは、良くないことです。決して力む事もなく、ただ、神様の上昇気流に身を任せることです。「そうすれば、主はあなたを上げて、国を継がせられる」(34)のです。
3.主に寄り頼め(37~40)
 ここまで悪しき者には目を留めてきませんでしたが、彼らの最後は滅びです。彼らを滅びに至らせるのは、私たちの力を持って戦うからではありません。どんなに悪が私たちを責め、私たちを裁こうとも、私たちが戦うのではなく、主が戦って下さるのですから、主に委ね、お任せし、私たちは避け所なる主に寄り頼み、身を寄せる事です。
 詩篇46篇には、神様は「われらの避け所また力、悩める時のいと近き助けである」(詩篇46:1)と書かれている続きに、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10)とありますように、主に寄り頼む事は、静まって主に祈るということであることが分かります。苦難と悩みの時にこそ、じたばたせず、ただ主の御前に静まって祈りを捧げるべき事を教えられます。
 正しい人の歩みは、心に主の御言を貯え、主を待ち望んで、主に寄り頼んで祈る姿勢です。悪い時代に足をすくわれることなく、しっかりと歩んで参りましょう。
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 七草を迎えて、正月気分もそろそろ抜け始めている頃でしょうか。新しい年と共に新たなる気持ちを持って立ち上がりました。
 日頃から放置されがちな教会のHPをリニューアルしました。ホームページは絶えず生きた新しい情報を提供し続けないと、アクセスが減ってしまいます。怠慢で放置してきたのではありません。教団や教区のためにほとんどの時間が取られてしまい、自己の教会のHPの改変が難しくなっていました。新しい年の課題の一つとして、HPのリニューアルを挙げていましたが、年明けと共に早速実行いたしました。新しい技術などを用いたモジュール等も独自で開発できました。また、教団や教区でも用いていただけそうです。

 HPの効用は、難しそうだから、経験がないからと敬遠されがちですが、手がけている教区内のHPや私どものHPでもかなりのアクセス数があり、HPを通して教会に導かれる方々もかなりの数になってきました。私たちの教会でも、昨年はHPを通して一家族が導かれました。伝道効率を考えるとかなりの伝達効果があることが分かります。

 かつては、パソコンに向かうことは、罪を犯すことの様に言われた時代がありました。いろいろな批判が聞こえてくるようなこともありましたが、宣教のためにという一念で、利用方法の模索とスキルアップに努めて来ました。教会ではギターもかつては批判の対象である時代もありましたが、賛美のために、今では無くてはならない楽器となりました。パソコンという無機質な機器も魂込めて使えば、神様のためになります。

 今後も、時代の流れに翻弄されることなく、ITだけでなく、色々なメディアを利用した福音宣教について模索を続け、この年も、映像方面などにも力を入れて、IT技術を駆使して福音伝達の前進のために尽くしていきます。よろしくお祈り下さい。

http://www.jhcs2.org/kgc/
高知GCのホームページ
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2009年を迎え、年頭の言葉をいただきましたので、お分かちさせていただきます。

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:5)

 むかしから「一日の計は朝にあり、一年の計は元旦にあり、一生の計は少壮の時にあり」と言います。儒家・安井息軒の「三計塾記」の解説には,こう書いてあります。「一生の計は一年をどう過ごすかで決まり、一年の計は一月一日を充実して過ごすことによって決まる。一日は再び戻ってこない。主君や両親の恩に報いるよう天から与えられた刻一刻を大切にし、しっかり学問をしなくてはならない」と。私たちクリスチャンにとっても、毎朝のデボーション。年の始まりの静まり、若い頃の気構えが一生を決めるのかもしれません。
 
 しかし、私たちを取り巻く世の中は、とても厳しい状況が広がっています。昨年末に広がったアメリカ初の大不況の津波が待った無しで、この日本にも到達しました。この年明けの寒空の下で、苦悩を味わっている人も多いことでしょう。そこには、詩篇の作者も語っているように取り巻く悪を行う者、不正を行う者たちへの「悩み」「ねたみ」「怒り」が書かれています。無差別殺人者の多くは、怒りの掃け場を失って、「だれでも良かった」ととんでもない事件が起こったりします。
  
 この詩篇が書かれた作者はすでに老境を迎えています。豊かな人生経験を下にして、そのような怒りの元になる悪を行う者たち、不正を行う者は、やがては草のように枯れ果て、自滅すすると語っています。この世では、良い思いをできたとしても、この世の最後の裁きの時には、滅びに至ってしまいます。
 
 むしろ、そのような悪しき者に怒りやねたみをもって心捕らわれることなく、「主にゆだねよ」「主に信頼せよ」と勧めます。「ゆだねる」とは、石などを「転がす」という意味です。主の上に人生の重荷を転がして、背負っていただくという意味にもとれます。徳川家康は、「人生は、重き荷を負って遠き道を往くが如し」と言ったそうですが、イエス様は「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28~30)。と言われました。「ゆだねる」ことは、全てを主にお任せと考えがちなのですが、主と共にくびきを担うことです。
 
 主にゆだね主に信頼する者は、主に対する善を行い、暗闇の時代にあっても、真昼のように主の義を表すことができるのです。なぜなら主が共にその荷を負って下さるからです。そして、たとえ道は暗くとも、「耐え忍びて主を待ち望」む者は、神の国を継ぐことができるのです。
 
 2009年の新しい年が皆様にあっても、大きな祝福と前進の年となりますように。
 
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◎聖書箇所…使徒行伝8:26~40
 ステパノの殉教で散らされて行ったクリスチャンたちにより、各地に福音が伝えられてました。使徒行伝1章8節でイエス様が約束されたように、聖霊の力によって、エルサレムからユダヤとサマリヤの全土へと福音が伝えられました。サマリヤでは、多くの人々が救われて、エルサレム教会からペテロとヨハネが遣わされるほどでした。ペテロとヨハネは洗礼を受けていながら聖霊を受けていなかったサマリヤの人々に按手をして聖霊が授かるように導きをいたしました。聖霊の働きは、サマリヤに留まらず、更に地の果てに向かう福音宣教の業を見せて下さいました。今日はそのために用いられたピリポの宣教の働きをみて行きくましょう。
Ⅰ.御霊の導きに従ったピリポ 
 サマリヤでのピリポの働きは素晴らしい成果を収めました。ピリポもサマリヤに留まって、ピリポの教会形勢のために働きたいと願ったに違いありません。しかし、神様はピリポをサマリヤに留めようとはなされず、立ち上がって、ガザへ行けと命じられました。ガザはかつては栄えた町でありましたが、度重なる諸国の侵略により栄枯盛衰を繰り返し、ローマの時代には町が移転して、古いガザの町は注釈のとおり荒れ果ててしまいました。神様は何の目的でこの荒れ果てたガザにピリポを遣わされるのでしょうか。立ち上がって、御霊の導きに従ったピリポにすぐさまその目的が明らかにされます。ガザへ行く途中でピリポはエチオピヤ人と出会いました。
Ⅱ.み言葉を解き明かすピリポ 
 この馬車で旅するエチオピア人は、エチオピアの女王カンダケの高官で女王の財宝を管理する宦官でした。宦官はユダヤ教の改宗者のようで、エルサレムで礼拝を下帰りの道のりであったようです。御霊に導かれてピリポが馬車に駆け寄るとイザヤ書53章を読む声が聞えました。揺れる馬車の上ですから、諳(そら)んじていたのかも知れません。それこそ、御霊の導きは最善でとても良いタイミングにピリポを遣われました。
 ピリポは宦官に、「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」と声をかけ、わからないと答える宦官に聖書の手ほどきを申し出ました。ピリポは口を開いて、この聖句から説き起こして、苦難を受け、よみがえられた主イエス・キリストの福音を、余す所なく宦官に伝えました。イザヤ書53章は苦難のメシヤであるイエス様の事が預言されている箇所でしたから、御言もまた最善の箇所がすでに開かれていました。
 「だれのことを言っているのですか」(34)という宦官の問いに、ピリポは「この聖句から説き起こして、イエスのことを宣べ伝え」(35)ました。伝える事柄は自分自身のことでなく、救い主イエス様の事です。
Ⅲ.バプテスマを授けるピリポ 
 ピリポの教えに耳を傾けた宦官は、悔い改めてバプテスマにあずかる決心が与えられました。水のある所に来た時に、 「ここに水があります。私がバプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか」(36)と問いました。ピリポは、 「あなたがまごころから信じるなら、受けてさしつかえはありません」(37)と言うと、宦官は 「私はイエス・キリスト神の子と信じます」(38)と答えました。
 洗礼の条件は、求道のキャリヤでも、学びの出来不出来でもありません。ただ、イエス様を救い主と信じる事なのです。
「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10:9)。
 しかも、彼は異邦人でしたし、宦官と呼ばれる去勢された人です。旧約聖書では、異邦人はもとより、会衆にも加われない存在として扱われていました(申命記23:1)。しかし、救いはすべての人に開かれていることを神様はこの出来事をもって示されました。
 そして、私たちが真の神様のもとに導かれたのは、神様に従って福音を伝えてくれた人々がいたからです。私たちもピリポのように、聖霊なる神様の導きに従って、その人々に、すべての人の罪のために十字架につけられ、死んで甦ってくださった、救い主であるイエス様のことをお伝えしていきましょう。
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◎聖書箇所…使徒行伝8:1~8
 金銭にかかわる問題は昔から後を絶ちません。世界経済も陰りを見せている今日、すべては金次第という一時代は終わろうとしています。すべての物はお金で買えると豪語したバブリーな人々も今は陰を潜めています。本日は、お金では買えない神様の賜物について学びたいと思います。
1.魔術師の驚き
 エルサレムで起こった大迫害で散らされたクリスチャンによる伝道が各知で起こりました。信徒伝道者として選ばれていたピリポはサマリヤの町で大きな宣教の成果を上げていました。御言に伴うしるしと奇跡が起こされ、悪霊憑きや中風の者、足の利かない者が癒され、町中に歓喜の声がこだましていました。
 そのサマリヤで救われた一人の人が名前を挙げてかたられています。特筆されるからにはそれなりの理由があったに違いありません。彼の名はシモンで魔術師でした。それまで魔術を通して人々を驚かして、自分を偉い者かのように振る舞っていたようです。「大能」の神の力と呼ばれる事を喜んでいたようです。
 しかし、ピリポの神の国とイエス・キリストの名についての宣教により、魔術師だったシモンも信じてバプテスマを受けました。彼はピリポについて行きました。そして、ピリポの行っていた数々のしるしと奇跡に驚いていたようです。彼は不思議の世界の専門家で、種の有る無しを見定めることができたでしょう。しかし、ピリポの行ったしるしと奇跡に種を見いだすことができなかったのです。今まで、人を驚かせていた人が驚いていたのですから、間違いありません。
2.救いに必要な聖霊
 使徒ペテロとヨハネは、神の言葉を受け入れた人々が起こって評判になっていたサマリヤに遣わされました。ユダヤとにとっては汚れた土地であったサマリヤにペテロとヨハネが遣わされたということは、エルサレム教会にとってサマリヤがどれほど大切であったかがわかります。
 しかし、何かが足りませんでした。それは、聖霊が下っていなかったということです。キリスト教を知り、神の言葉である聖書の言葉に目が開かれて、水のバプテスマを受けるだけでは不十分でした。 「だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない」(ヨハネ3:5)とイエス様は言われました。また、復活のイエス様は、弟子たちに息を吹きかけられて仰いました「聖霊を受けよ」(ヨハネ20:22)と。救いには聖霊を受けることが必要です。二人が按手をするとサマリヤの人々は聖霊を受けることができました。
3.お金では得られない聖霊の賜物
 それを見ていた魔術師シモンは、お金を差し出して、聖霊を授ける力を求めました。彼は聖霊を受ける前に、聖霊を授けることを求めていましたし、その動機は不純でした。
 魔術とは、ペルシャの祭司からの始まったと言われ、後にマジックと言われているように、常識では理解し難い現象を見せて、人々を驚かしている人でした。しかし、この類は、人を楽しませる事を目的とする手品師とは異なり、現代のカルト的な宗教指導者やいかがわしい霊能師に見られるような、人の気持ちを手玉に取り支配するような働きだったのでしょう。この種の働きを聖書は禁じています(レビ19:26,申18:9~14,Ⅱ列17:17)。
 「神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか。おまえの心が神の前に正しくないから、おまえは、とうてい、この事にあずかることはできない」(20~21)。
 神様の賜物にあずかる事ができる人とできない人の違いはどこにあるのでしょうか。その賜物を受けることの障害は「神の御前に正しくない」「悪事」、「思い」「苦い胆汁」「不義のなわ目」と言っています。すなわち、罪の問題なのです。賜物を求める事自体は問題はありません。しかし、その動機が問われるのです。そして、その動機が罪と直結している限り、賜物にあずかることが出来ないのです。
 それではどうすれば良いのでしょうか。まずは悔い改めることです。
「だから、この悪事を悔いて、主に祈れ。そうすればあるいはそんな思いを心にいだいたことが、ゆるされるかも知れない」(22)。
 私たちが奉仕をするにも、献身をするにも動機が問われます。その動機が不純であるならば神様は聖霊の賜物を私たちに授けられることはありません。まずは信仰が清められ、動機が清められるように、悔い改めて主に祈りましょう。
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◎聖書箇所…使徒行伝8:1~8

 復活のイエス様は、昇天される前に弟子たちに向かって 「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)と宣教命令を与えられました。その後、 「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒1:8)と聖霊降臨(ペンテコステ)と共にエルサレムから近隣地域を経て、地の果てまで福音は伝えられました。この福音は、今や全世界の隅々まで宣べ伝えられ、今日も多くの国や地域で福音宣教の業が展開されています。本日は、世界宣教のきっかけとなった出来事から、私たちの宣教についても考えてみましょう。

1.教会のピンチ

 前回は、キリスト教会初の殉教者ステパノの死について学びました。そして、ステパノの殉教の死を契機として、初代教会に対する大迫害が起こりました。ですから、サウロ(のちのパウロ)はステパノを殺す場に立会い、彼を殺すことに賛同したのです。サウロは強情にも狂った者のように、クリスチャンたちを迫害していったのです。「サウロは家々に押し入って、男女を引きずり出し、次々獄に渡して、教会を荒らし回った」(3)と、サウロの迫害は、異常なまでの行動となりました。
 なぜなら、ユダヤ人にとって十字架に付けられ殺されたイエス様は神様に呪われるべき者であるはずで、そのイエス様を、神様が主とし、墓から甦らせたと宣べ伝えるクリスチャンは許しがたい連中だとサウロは考えたからです。こうしてエルサレム教会への最初の迫害が始まったのです。議会とユダヤ人社会の憤激は、ステパノ殺害にとどまらず、エルサレム教会への全面的な敵対と大迫害を生むことになりました。
 誕生したばかりの教会にとっては、この迫害は大ピンチです。下手をするとクリスチャンは根こそぎ抹殺されてしまうかもしれません。それは、かつてのナチスドイツによるユダヤ人への大迫害やキリシタン弾圧のようにこの世の中から、抵抗勢力を抹消しようとする怒りと憎しみに満ちた蛮行でした。
 使徒たちはエルサレムに残り、それ以外のクリスチャンは各地へと散らされて行きました。信仰深い者たちにとって、ステパノの殉教死は深い悲しみでしたし、結集していた力が分散されることは、望ましい事ではなかったように思われます。

2.宣教へのチャンス

 しかし、教会のピンチは意気消沈や絶望で終わりませんでした。ユダヤとサマリヤの地方などに「散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いていた」(8:4)ということです。迫害から逃れて、逃げ隠れていたという事ではなく、ピンチの状況の中にもチャンスをうかがいながら、御言を宣べ伝え続けたのです。
 その中でも、ピリポはサマリヤに下って行き、人々にキリストを宣べ伝えています。さらに、「御言に伴うしるし」(マルコ16:20)をもってイエス様が救い主であることの確かさを人々に伝えていました。その宣教の業は、サマリヤの町に「大変なよろこび」をもたらしました。

 10月31日(金)私の祖母が101歳の高齢で昇天いたしました。仏教用語では「大往生」と言いますが、英語ではpeaceful deathといいますが、平和に満ちた安らかな召天でした。私の一族では初穂であり、一族にとどまらず近隣の人々にも影響を与えた人でした。福音に接する機会はいくつかありましたが、一つは火事でありました。隣家からの延焼で焼け出されたのがきっかけで、教会にお世話になったこと。息子が教会に通うようになったこと。娘が国際結婚をして、アメリカのフロリダに嫁いだこと。語学の必要に迫られて、YWCAで英語を学んだこと。フロリダ在住の娘が出会ったご婦人バッキンガム女史との50年にわたる手紙のやりとり、そこに書かれていた聖書の言葉から福音に接することになりました。福音に接した時は、良いときばかりとはいえませんでした。ある時はピンチの時であり、悩める否定的消極的な時でありました。しかし、福音を伝えてくれた宣教師もクリスチャンたちも、手紙の端々や日常の中のチャンスを生かして用いる人たちでした。また、祖母の信仰は決してほめられるような信仰ではありませんでしたが、機会があるごとに人を教会に連れて行き、キリスト教を紹介していました。近隣でも何人かの方々が教会に導かれていますし、わたし自身も祖母に連れられて日曜学校に行ったのが救いのきっかけとなりました。それはちょうど、イエス様の元へ、兄弟シモン・ペテロをお連れしたアンデレのようであり、目立たない働きではありましたが、ピンチをチャンスに変える神様の働きの一端で会ったに違いありません。
 一昨年、Power for Livingというブルーの表紙の雑誌が出版され、全国の教会で配布されました。テレビCMでも放映され話題を呼び、隠れたベストセラーにもなりました。実はこの書物の骨子は、祖母が文通をしていたご婦人バッキンガム女史の息子ジェイミー・バッキンガムが著した書物でした。何という不思議な神様のご摂理でしょうか。祖母の葬儀では、この雑誌が配布されて、祖母の在籍した教会とお世話になった日本基督教団愛知教会。そして、私の在籍する日本ホーリネス教団や近隣教会の牧師や信徒も多数集まって下さり、さながら伝道集会の様な葬儀になりました。祖母の死は私にとっても人生のピンチでありましたが、祖母の生きたクリスチャンとしての歩みを証しし、福音を伝える絶好のチャンスとなりました。
 あなたにも福音宣教のチャンスが与えられていることに気づいておられるでしょうか。ピンチと思われる状況をも神様は用いてくださるお方です。

「今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい」(エペソ5:16~17)
「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい」(Ⅱテモテ4:2)。
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Posted by: saeki
◎聖書箇所…使徒行伝7:54~60
 議会でのステパノの証言は、アブラハム、ヨセフ、モーセの三人の人物についてでした。この父祖たちによって、イスラエル民族は神様の大きな祝福をいただきました。しかし、彼らは神様に真実ではありませんでした。40年の荒野の旅路で何度も、モーセに背き、神様に対して不信仰な行動をとりました。そして、50節以降でイスラエルの人々はその先祖と同じ様に、聖霊に逆って神の子イエス様を十字架につけて殺してしまったのだとステパノは非常に厳しい指摘をいたしました。だから、それを聞いた人々は「心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした」のは当然のことであったと思います。
 議会の議員たちは、正式な判決を待たずに、激しい怒りに燃えてステパノ目がけて殺到し、彼に石打にしました。彼らは怒りに打ち震えながら、ステパノの語る真理に耳をふさぎ、天の使いのように輝く彼の顔に目をとじて、罪の上に罪を重ねる行動に走ったのです。そして、ステパノは初代教会初めての殉教者となったのです。本日は殉教者ステパノの姿を通してステパノの信仰姿勢を学びましょう。

1.天を見つめたステパノ

 激しい怒りを買い、怒りの矛先がステパノに向かおうとしていた時にもかかわらず、ステパノは彼らを見つめないで、天を見つめていました。人の非難を浴びたり、怒りが向かってくる時、その恐怖心や不安から、私たちはどうしてもその問題や人に対して目が向かいがちです。

 日曜学校で開かれているヤコブ物語のヤコブは人を恐れて、天を見上げることができませんでした。ヤコブは自業自得ではありましたが、兄エサウの反感を買い、追われる身となりました。叔父ラバンの地でも、20年間仕えてその地を去る時も、多くの財産や家族を手にしたのですが、がめつい叔父に奪い取られるのを恐れて、逃げる去るようにして、その地を去りました。兄エサウとの再会も仕返しを恐れて、一族の最後尾で恐れおののいていました。ヤコブの人生は実に人に対する恐れに捕らわれていた人生でした。
 
 イエス様は、 「からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな」(ルカ12:4)と仰いました。また箴言には「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである」(箴言29:25)と書かれています。

 「見つめる」とは、 「目を注ぐ, じっと見つめる, 凝視すること」です。ただ、見つめていただけではないのです。その眼差しには期待がありました。ステパノは、迫り来る危機的な状況の中も、 「聖霊に満たされて」(55)、神様に期待を寄せて天を見つめていたのです。ステパノは聖霊に満されていなかったならば、天を見上げることはできなかっただろうと思います。まずは聖霊に満たされている人は、人ではなく、神様により頼むのではないでしょうか。

2.目が開かれたステパノ

 ステパノが聖霊に満たされて、天を仰いでいますと、天が開けて、栄光の神の右手に主イエス様が立っておいでになるのが見えて来ました。そして、 「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」(56)と言いました。聖霊に満たされて神様の助けに期待して天を見上げるとイエス様が見えてくるのです。

 迫害の手が押し迫る状況下に、神様はステパノを一人だけにしませんでした。昇天されたイエス様は、御父の御座の右におすわりになったのですが、そのイエス様がステパノの受難をじっと見守りつつ、立ち上がっておられるのを見ることができました。ステパノにとってそれはどれだけ、勇気づけられたことでしょうか。私たちも苦難の中を通過する時、主は私たちを励ますために立ち上がって応援して下さっています。

 このすばらしい光景を見たステパノは町外れまで引きずられて行き、ました。そして、怒り狂う人々はステパノめがけて石を投げつけました。後から後から投げつけられる石で傷つき倒れ伏して行く光景は何とも無残です。しかし、ステパノ自身は実に静粛さを保ち、不思議なほどの安らぎで満たされています。そして、彼は祈るのです。

 「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい。主よ、どうかこの罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って彼は眠りにつきました。既にお気づきでしょうが、この言葉は、イエス様が十字架上で叫ばれた言葉と同じです。

 苦難の中で神様により頼む者はイエス様を見ることでできます。そして、イエス様のように生きる事が出来るのです。

 1629年1月12日、雪に覆われた米沢の北山原でキリシタンが処刑されました。刑場までの道のりを喜びのうちに祈りと賛美を捧げながら引かれていく武家信者の姿に感動した群衆の中から、武家に仕えていた者や知行地の農民、1歳の幼児から老夫婦までが名乗り出て、53名の処刑がなされたそうです。刑場に引かれていく人々もステパノのように天使の顔のように輝いていたと語り継がれているそうです。
 
 犬死にのように見えるステパノの殉教死も、その殉教の姿を見つめる一青年サウロがおりました。彼はキリスト教の大迫害者でしたが、ダマスコ途上で復活のイエス様と出会い、目が開かれて、大宣教者パウロでした。ステパノの死はパウロにも大きな影響を与えたことと思います。

 苦難の中でも、天を見上げるならば、霊の目が開かれイエス様がわかるようになるでしょう。そして、私たちもイエス様のようにさせていただきましょう。
Category: 信仰・教会
Posted by: saeki
◎聖書箇所…使徒行伝7:9~16
 リベルテンの人々によって訴えられたステパノは、議会に立ち弁明が続けられています。第一に、信仰の父となったアブラハムの生涯。第二に兄弟から捨てられた苦境の生涯を味わい筒も神様が共におられて祝福されたヨセフ。そして、本日は奴隷としてエジプトに増え広がったイスラエルの民の解放者となったモーセについて語っています。ステパノはモーセ生涯を語りながら、何を伝えようとしているのでしょうか。
1.荒野に身を寄せるモーセ
 神様がアブラハムに語った約束は、エジプトの地で実現いたしました。イスラエルの民は「エジプト全土にひろが」(17)り、エジプトの国を脅かすほどの勢いを増していきました。エジプト王は、イスラエルの民を虐待し、重い労役を課しました。また、生まれてくる幼子が男の子ならナイル川に捨てるように強要しました。
 その中で生まれたのが、モーセでした。両親は王の命令をも恐れず、三か月間は親元で育てられるも、隠しきれなくなり、ついにはナイル川に「捨てられ」る(21)ことになりました。捨てられると言っても、必要なくなって捨てられるのではありません。この言葉には、「見える所に置く」という意味があります。親の愛情を一心に受けながらも、できることなら助かってほしいという期待をもって、パロの娘の水浴をする水辺近くの葦の茂みに、パピルスのかごを船にして幼子を置きました。そして、神様の御摂理の内にパロの娘に拾い上げられることになり、モーセは王家の子として育てられることになるのです。
 40歳になった時、虐待される同胞イスラエル人をかばい、エジプト人を殺害してしまいました。同胞イスラエル人に理解を得られるものと期待をするもかえって反感を買うことになってしまいました。エジプト人殺害の事もパロに知れることになり、モーセはエジプトから追われる身となってしまいました。そして、ミデアンの地で身を寄せることになります。「身を寄せる」という言葉は「自分の国でない外国への一時的に身を寄せる寄留者」を意味する言葉です。
 「捨てられ」「追われて」異邦人のように身を寄せるモーセの姿は、私たちの姿でもあります。本来いるべき場所ではないと感じながらも、身を寄せなければならない事情の中で、モーセは40年間も羊を追いながら、荒野の生活をいたしました。モーセはこのミデアンの荒野で、エジプトの王家で養われた高ぶりも思い上がりも、すべては打ち砕かれたのでした。
「あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。」(Ⅰペテロ2:11)。
2.荒野で使命が与えられるモーセ
 神様はシナイ山の荒野にて、燃える柴の炎の中でモーセに現れました。
「わたしは、あなたの先祖たちの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である」(使徒7:32)と祝福の継承がモーセに受け継がれたことを知らされました。それは畏敬に満ちた神様との出会いでした。
 「あなたの足から、くつを脱ぎなさい。あなたの立っているこの場所は、聖なる地である」(33)とも同時に言われました。靴を脱ぐことには、意味があります。それは権利の譲渡や剥奪であり、祝福の継承のためには、これまでのモーセの自己主張や高ぶりのすべてを脱ぎ捨てる必要がありました。聖なる主の前に立つ時、私たちは自らを聖別する必要があります。
 神様の御前にひれ伏すモーセに対して、神様はモーセをエジプトに遣わすという使命を与えられました。神様はエジプトの地で虐待されているご自身の民を見過ごしにされているわけではありませんでした。彼らを救い出すために、荒野においてモーセを備えられ、彼らを救い出すためにモーセを召されたのでした。
 私たちも荒野に身を寄せることがあったとしても、それは神様が備えた時であり、時至って主は私たちを新たなる使命に遣わされます。この世のうめき悩みに私たちを遣わそうとされているのではないでしょうか。
3.荒野に遣わされるモーセ
 パロに追われ、同胞からも排斥されたモーセはエジプトに支配者、解放者として遣わされました。エジプトの地では心かたくなにするパロの前で、行く手を遮る紅海でも、荒野においても、しるしと奇跡が行われました。また、シナイ山では、「生ける神の御言葉」(38)を授かり、イスラエルの民に伝えました。
 ステパノは、どうしてここでモーセのことを語ったのでしょうか。それは、ユダヤ人にとって、モーセはイスラエルの民をエジプトから導き出した指導者であり,預言者であり,律法授与者だからです。ステパノはこのモーセの生涯を顧みながら、ステパノ自身もモーセのように神様から遣わされた自覚を持って生ける御言葉を語っているのです。
 ステパノの語る言葉聴く人々の大半は、ステパノに対する怒りに燃えて、神様を見失っていました。それは、かつてのイスラエルの人々とよく似ていました。
 「先祖たちは彼に従おうとはせず、かえって彼を退け、心の中でエジプトにあこがれて」(39)、偶像崇拝に興じてしまいました。どんな都会生活であろうと、神様を見失った心は荒野同然です。
 そして、さらには、モーセとイエス様との間に顕著な類似点を見いだしていたのではないでしょうか。イエス様は、すべての人の救いのために、この世に遣わされ、神の国の福音を伝えました。しかし、人々はそれを受け入れず、十字架の死に追いやってしまいました。捨てられたモーセとイエス様、同胞からも裏切られたモーセとイエス様でした。
 ペテロの手紙ではこのように言っています。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない。…不信仰な人々には『家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの』、また『つまずきの石、妨げの岩』である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないから…」(Ⅰペテロ2:6~8)。
 私たちも荒野のようなこの世にあり、捨てられたような存在であるかも知れません。しかし、捨てられて隅の頭石となられたイエス様により頼んで、御言に従っていくならば、たとえ捨てられたような人生であっても、その人生は失望に終わることがありません。神様があなたに抱いている計画は、「将来を与え、希望を与えようとするもの」(エレミヤ29:11)であり、神様はあなたをも用いようとなさっています。荒野にて、神様からの召しをいただき、モーセやステパノのように救いを必要としている荒野のいる人々のところに遣わされていきましょう。