炎の伝道者 青野雪江師

松山桑原教会牧師 安井 満

青 野 雪 江
出生 1894年(明27)
受洗 1928年(昭3)
召天 1988年(昭63) 2月16日
 

 日本ホーリネス教団には18教区あり、四国教区もその一つである。四国教区と言っても、香川県と徳島県にはなく愛媛県恚高知県に一四教会あり、その中でも11教会が愛媛県にある。それも松山市と土居町の約70キロ区間に存在する。日本ホーリネス教団は大教団でないにもかかわらず、愛媛県下の東中予地区に密集しているのは一人の女性伝道者の働きによる。その女性伝道者が青野雪江師である。
 
 青野師は明治27年に今治市で、米穀商青野家の三番目の子として生まれている。母親は胎内の子が大暴れするので、「こんどの子は男の于だよ」と周囲の者に話し、男の子の出産の支度をしていたそうである。生まれて見れば女の子であったが、性格は男の子以上に逞しく育っていく。小学生時代のエピソードが沢山ある。通学路を牛がふさいでいるのを見て、鼻輪をつかんで移動させたことがある。驚かされることが自伝「主の愛に迫られて」の中に記されている。「わたしは高等科四年生の一学期で学校をやめた。学校が嫌いでやめたのではない。教師の不道徳な行為を黙っていることができず衝突してしまった。結局先生を退職させることより自分が退学する方がよいと考えたので、両親を納得させて退学届けを出した。」と。
 
 青野師は一度結婚するが、半年後に夫が肺結核を患って死亡する。夫の結核が感染して青野師も結核を患い、孤独な闘病生活を送ることになる。感染を恐れて身内の者も遠ざかるが、一人のクリスチャンが愛の手を差し伸べる。そのクリスチャンの愛に触れて、これまで神に背を向けて生きてきた罪を悔い改めて洗礼を受ける。青野師が35歳の冬のことである。青野師の場合、魂の癒しが肉体の癒しにつながる。青野師は肉体の癒しを願ったわけではなく、魂の救いの喜びに溢れていて、気がつくと肉体の癒しがなされていたのである。健康が奇跡的に回復することによって、伝道者としての働きがなされることになるが、「いやしの賜物」 (第ニコリソト12:9)が伝道の武器となり、伝道の成功の大きな要素となっている。
 
 青野師が伝道者としてスタートするのは38歳であるが、神学校の卒業がスタートになっているのではない。東京聖書学院でニカ月ほど聴講するが、神学校での学びはそれっきりである。高等小学4年生で退学し、神学校は2カ月の聴講であるから、ご本人は自分には学問がないことを自覚していた。パウロは、「わたしが宣べ伝えた福音は人間によるのではない。わたしは、それを人間から受けたものでも教えられたのでもなく、ただイェスーキリストの啓示によったのである」 (ガラテヤー1:11~12)と述べているが、青野師の福音理解と聖書理解は祈りと聖霊の導きによるものである。誰もが青野師の聖書のお言葉の暗記力には驚かされたが、それは単なる暗記ではなく、お言葉の一つ一つに導かれた信仰生活の中で魂に刻印されたものである。信仰体験に根差して語る聖書からのメッセージには迫力があった。
 青野師が伝道者になって最初の受洗者の一人の方が、「青野先生と私」と題した一文を自伝「主の愛に迫られて」に寄せている。その中で、「私がイエス様を信じて救われたのは、昭和6年12月5日でした。…先生は四国伝道の第一歩を、菊間からお初めになりました。その菊間教会の第一回の受洗者であった私たちは、幸いにも先生を独占し、先生の実生活を通して聖書を読むこと、祈ることを学ばせていただきました。・:先生は聖書中の聖句とモの章、節まで、よく暗記しておられることは実に驚くばかりで、コソゴルダンスを調べるよりも先生にお尋ねする方が早いのであります」と述べている。
 
 青野師は日本基督教団第六部(聖教会)に属していたが、昭和18年に治安維持法と宗教団体法により解散を命じられる。四国での伝道の正式な再開は昭和24年である。この時期は戦後のキリスト教ブーム時代でもあったが、青野師は単なるブームに終わらせず、戦後の四国教区の基礎を確立するのである。その頃のことが自伝の中で、「戦後日本ホーリネス教団が復興したのは昭和24年であった。それ以降、約五年間開拓伝道に励んだ。その五年間はまさに月月火水木金金の忙しさであった。365日一日も休む間もないほど開拓伝道で追われた。日曜日には3、4回のご用があった」とある。昭和25年1月には、71名の受洗者があったと記されている。

 私自身が青野師が戦後の四国開拓伝道に取り組んだ年齢に達して、改めて先生の伝道の情熱の凄さに驚嘆している。あの伝道の情熱は神からの賜物であると思うが、なぜ神は先生をあのように用いられたのか、常々考えさせられていることがある。
 
 第一に、神に対する素直な信仰と人々に対しての大胆な伝道である。私には忘れることのできない経験がある。私は四国の田舎の教会で信仰生活を送っていたが、大学受験に失敗して自分の志した道に迷いを感じていた時、青野師が教区長巡回で私どもの教会にこられたので、事情を話して祈っていただこうと考えた。すると先生が、「もし神のご計画でないなら何年勉強しても絶対に合格せん」と一喝された。この一言が私の迷いを一掃してくれた。自分の計画優先ではなく神のご計画を最優先すべきことを決心させたのである。その後、神は私に対して伝道者としての道を備えて下さっていることを確信させられ、以降30数年の伝道生涯を歩んできた次第である。先生は実に神に対して素直に従われた器であったが、それだけに信徒に対して大胆に神に従うことを訴えることができたのである。
 
 第二に、個人伝道によって人々をキリストへ導いたことである。個人を相手に3時間前後に及ぶ伝道がなされる。伝道の内容』の核は、神、罪、救いであり、ローマ人への手紙1~6章を基本にし、それに先生の体験を交えてなされる。この個人伝道によって救いの恵みに導かれた者、また洗礼を受けた者クリスチャンとしての歩みに自信がない者が確信づけられた者が多い。
 
 第三に、他者の重荷を背負って神の前に出て祈ることである。先生は祈りの人であったということは師を知る者の共通の感想であるが、彼女は自分の問題で神に祈るというのではなく、信徒や求道者の抱えている問題を自分の身に置き換えて神の前に祈るのが常であった。依頼を受けた祈りの課題に対して、朝ごとに夕ごとに神の前に出て祈るだけではなく、先生の祈りの特徴は徹夜で祈り続けることであった。
 
 第四に、伝道者と七て最後まで伝道の情熱が衰えなかったことである。古希を迎えて東予市(旧壬生川町)で開拓伝道に取組み、会堂建設を成し遂げられた。さらに米寿を迎えて西条市で開拓伝道に取組み、現在の西条教会の基礎を捉えられたのである。青野先生は80歳を迎え、日本ホーリネス教団の牧師を引退されたが、伝道の情熱は押さえ難く、信徒の要請もあり、西条市で開拓伝道を始められた。四国教区でも先生の働きを支援して、西条市民会館で伝道集会を開いた。説教者は米寿を迎えた青野師である。300名以上の出席があり、その集会でクリスチャンになる決心をした方が、現在でも教会の中心的な働きをしている。先生は1998年2月、93歳で天に召された。先生の召天後、四国教区では先生の伝道の情熱の継承を願って、年に一回青野記念宣教大会(現在は賛美大会)を開催して現在に至っている。